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礼拝説教要約(201824日)

「神の子のしるし」       聖書・ヨハネ福音書2111

 先週のメッセージで、イエス様に対して「人の目を引き付け、驚きを与えて、人の心を支配するための奇跡を行なえ」とサタンは誘惑したことを話しました。でも、イエス様はそれを拒まれました。それは、出来なかったからではありません。イエス様の奇跡の行為は、人を引き付ける目的で行なうのではありません。愛の行為の結果として、溢れ出た力が奇跡となっているのだと申しました。

 しかし、ヨハネはイエス様の奇跡に対して、もう一つ大きな意味があることを示しています。それは、今日の説教題の「神の子のしるし」であります。

 イエス様が行われた最初の奇跡、本日の、カナでの結婚式に際しても、「イエスは、最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(:11)とあり、それだけでなく、奇跡を行なうたびに「しるし」という言葉が記されています。本日の奇跡も、人々の必要、求めに対する祝福の応答であります。しかし、母マリアとの会話の中に、今までとは全く異なるイエス様の姿が見られます。又、母マリアにも不自然な対応があります。

 カナでの婚礼は、イエスの母マリアと弟子を引き連れたイエス様も出席していたところからして、たぶん親戚の婚礼だったのでしょう。2000年前の時代は、現代のように文明の力による楽しみ、娯楽の無い時代でした。ですから、結婚式は人生における祝福であると共に、周囲の人々にとっても、大いなる楽しみの時でした。だから、祝宴が1週間続くというのは当たり前のことでした。この喜びの日のために、各家庭では多くのぶどう酒を蓄えていたのです。でも、この日のためにと蓄えていたぶどう酒が不足しました。予定以上に祝い客が多かったのです。その一因は、イエス様の弟子たちも加わったからかもしれません。

 マリアは親戚として、下働きにも心を配っていたのでしょう。いち早く、ぶどう酒の不足を知り、「母はイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』」(:3)と助けを求めました。会話を短くしていますが実際には、「イエス、イエス、どうしたものかね。ぶどう酒がなくなってしまったのだけど?」と言ったのでしょう。しかしそれに対して、マリアはイエス様から、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(:4)という意外な返事を聞くことになったのです。母に対して「婦人よ」とは、真に他人行儀な返事です。私の出番じゃないでしょう。私を煩わさないでくれ!とも聞こえる、そっけない返事です。 

でも母マリアはハッと気付きました。それは、自分がイエス様を身ごもる前の「天使の御告げ」(ルカ1:26~38)や、12歳の時、神殿で「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)と言われたことを「すべて心に納めていた」からです。ですから、マリアは、イエス様は自分の子ではあっても、もう自分の子ではない。神の子・救い主としての働きに着かれたことを悟ったのです。それ故マリアも「うちのイエスが」と言わずに、「この人が」と召し使いたちに、イエス様の指図に従うようにと言いつけました。なんと幸いなことでしょう。お言葉を心に納めている人は!

 また、何と幸いなことでしょう。イエス様の言われるとおり行動する人は!召し使たちはイエス様が、「水がめに水をいっぱい入れなさい」(:7)と言われるとおり、大きな水がめ6つの縁まで水で満たしました。1つの水がめに80リットル以上も入るのですから、約500ℓの水、何回も何回も井戸から水を汲み入れたでしょう。意味がわからず、なぜ?と思ったかもしれません。しかし、イエス様が言われたことだから、従順に従ったのです。また、イエス様は「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(:8)と言われました。「水なんか持って行ったら世話役さんに怒られるのでは!」と思ったかもしれません。それでも、イエス様のお言葉だからと、召し使いたちは水を運んで行きました。その結果、この召し使いたちはイエス様の奇跡の最初の目撃者になりました。その水は、最上等のぶどう酒に変わっていたのです。「水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった」(:9)

 このようにしてイエス様は神の子・救い主としての栄光を現されました。だからヨハネはイエス様の奇跡を「しるし」と書いたのです。でも、「わたしの時はまだ来ていません。」と言われたのは、十字架の贖いによるその死を指しています。イエス様はその使命を果たす準備を始められたのです。それは真の弟子を得ることです。神の子としてのしるしを見た人々は、イエス様を信じ、弟子となってゆきました。「この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(:11)

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