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礼拝説教要約(2018128日)

わたしはメシアに出会った」  聖書・ヨハネ福音書13551

 バプテスマのヨハネから洗礼を受け、人間の罪を負い、それを、命を代価として贖うため、イエス様は公生涯に立たれました。この福音書を書いた使徒ヨハネは、時間経過に従ってイエス様の出来事を記していないので、洗礼を受けてから本日の弟子の召しまでには、マタイ、マルコ、ルカ福音書にあるように、荒野での誘惑等、時間経過があったでしょう。

 「その翌日」と、今日の聖書箇所を書き出していますが、これはイエス様にバプテスマのヨハネが洗礼を授けた日の翌日ではありません。洗礼を授けた日の出来事を思い出して、ヨハネが弟子たちに29節から34節の前段を語られた。それは、あのイエス様こそが、神の小羊として、贖いをなす神の子・救い主だよ。それは「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』」(:33)と、前もって言われていた。そう言われたとおり、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」(:32)から、この方こそ神の子であると、確信をもって証しした。その翌日でありましょう。

 ヨハネは、イエス様へと人々を導き、結びつけることが自分の使命であると確信していました。ですから、自分と共にいた弟子に「見よ、神の小羊だ」と、イエス様に従うことを促したのであります。

 この当時、宗教のグループは集団で共同生活をし、ラビ(先生)の指導を受けるというのが常でした。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」(ルカ福音書11:1)ことからも、バプテスマのヨハネのグループでも、グループ特有の祈りがあったこと、また、「どのように祈るかを教えること」が大事なことであったとわかります。211日に行なわれる研修会では「主の祈り」について学びます。これは、イエス様に従う集団にとって固有のものであります。ですから、しっかり学びたいと思います。

 バプテスマのヨハネに言われたとおり、イエス様について行くことを決意した二人は、「何を求めているのか」(:38)と尋ねられたイエス様に、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」(:38後半)と答えました。これは単に、泊まる場所を聞いたということではありません。先にも言いましたように、「私たちも先生と寝食を共にする仲間に加え、ご教授ください。」ということであります。

では、イエス様の弟子集団が形成されてゆく過程に目を当ててみましょう。

その特徴は「誰かがイエス様を紹介し、弟子になったその人が、又、イエス様を紹介する人になる」という方法であります。これは「こころの友伝道」の雛形であります。先ず一つ目の例は、アンデレとその兄ペトロです。バプテスマのヨハネの言葉に従い、イエス様を救い主として見出し、弟子となったアンデレは、兄のペトロに「わたしはメシア『油注がれた者』という意味に出会った」(:41)と言って、イエス様を紹介しました。そしてペトロもイエス様の弟子となりました。こころの友伝道を行なっている教会で、この伝道奉仕活動を「アンデレ会」と名付けているところが多くあります。

次の例は、フィリポとナタナエルです。フィリポもアンデレやペトロと同郷・ガリラヤ湖畔のベッサイダの出身でした。ガリラヤ地方では既に、バプテスマのヨハネが「救い主が出現した」と語りだしていることは、知れ渡っていたことでしょう。又、ペトロとアンデレの兄弟がイエス様の弟子になったことも、その日のうちに知れ渡ったのかもしれません。噂はすぐ広がる事を、「人の口に戸は立てられぬ」とか「悪事千里を走る」とか言います。もちろん、イエス様が救い主であるとか、イエス様の弟子になることは悪事ではありませんが、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」(マタイ3:5)とか、マルコも「ユダヤ全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」(1:5)と記したくらいですから、救い主の到来はイスラエル人皆の待ち焦がれていたことでした。ですから、ついに神の子・救い主が現れたというニュース、ペトロとアンデレがその弟子になったということを聞いて、フィリポも、自分も救い主にお会いしたいと出てきたのでしょう。そしてイエス様に出会い、「わたしに従いなさい」の一言でイエス様の弟子となりました。彼は友のナタナエルに会ったとき、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」(:45)と伝えました。ナタナエルは聖書を良く学び、祈りの人でありました。だから、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(:46)と、イエス様が救い主だということを否定したのです。しかし、それでもフィリポは「来て、見なさい」と誘ったのです。イエス様に出会ったナタナエルも、イエス様の言葉で弟子となりました。

私たちも、アンデレやフィリポのように、ただ自分の得た体験のまま「わたしはメシアに出会った」と伝え、そして「来て、見なさい」と誘う者でありたい。

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