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礼拝説教要約(2018114日)

洗礼を受ける」                             聖書・マタイ福音書31317

 「バプテスマ」という言葉は旧約聖書の中にはありません。祭司ザカリアの子・ヨハネが、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3:2)と教え、悔い改め罪を告白した者にヨルダン川でバプテスマを授けました。それ故、彼を人々は「バプテスマのヨハネ」と呼びました。彼は本来なら、祭司の子は祭司となるのですが、特別な使命をもって生まれました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(ルカ1:76~77)と、父ザカリアもヨハネの誕生にあたって、聖霊に導かれ預言をしていました。

 これは又、旧約聖書最後の書・マラキ書に「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父()の心を子(人間)に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」(323~24)や、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ。」(イザヤ403)と預言されていた人物であります。

 彼の授けたバプテスマは、悔い改めた者の罪を水で洗い流し、清めるという旧約的な性質のものでした。そのヨハネが、ヨルダン川で洗礼を授けているところに、イエス様が来られました。それは「洗礼を受けるため」でした。慌てたのはヨハネです。なぜなら、ヨハネは、イエス様が洗礼を受ける必要などないと分かっていたからです。罪が無い者は、悔い改めの洗礼を受ける必要が無いのです。ヨハネは、自分が救い主に先立って、人々の心を救い主に向くように整える役目を持っていることを承知していました。だからこそ、自分の後にすぐ、真の救い主(罪を赦す資格をお持ちの方)がおいでになることも知っていました。そしてイエス様を一目見たとき、この方こそ来たるべき救い主と察したのです。だから「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。』」(ヨハネ1:29)と記されているのです。ヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7~8)とも言っています。だから、ヨハネから洗礼を受けようとなさるイエス様に、「わたしこそ、あなたから、洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(:14)と言ったのです。しかし、イエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(:15)と言って、洗礼をお受けになられました。

 このことは「一人の人として、私たち人間と同じ地平に立つという意味の現われである」とも言われています。でも、これには、もっと深い意味があります。本来なら、罪のないイエス様が、神の裁きである十字架の死を受けるはずはないのです。ではなぜ、イエス様の十字架の死が、人間の受くべき神の裁きの身代わりとなるのでしょう。それは、イエス様が人間の罪を背負ってくださってからです。イエス様の受けられた洗礼は罪を洗い流す洗礼ではなく、罪を背負う洗礼です。私たち人間の受ける洗礼は罪を洗い流すものであり、その罪をイエス様は洗礼を受け背負ってくださったのです。そして罪人として十字架の上で、神の裁きを受けられたのです。この洗礼に於いて、人間の罪と神の子・イエス様の清さとがクロスされたのです。それ故、イエス様は十字架の死(ご自分の命を代価として、人間の命を買い戻す)を味わい、私たち人間は罪の贖いの恵みを受け、清い神の子とされるのです。私たちの罪がイエス様のものとなり、イエス様の義が私たちのものとなったのです。十字架こそ、神の愛が、イエス様によって表された極地です。それゆえ十字架は、私たちにとって慕わしいものです。でも十字架は死を意味します。パウロはこのことを、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3~4)と言っています。

 「古い生来の私は、イエス様と共に、十字架の上に死にました。でも、イエス様が復活されたように、私たちもまた、キリストの新しい命に生きる者とされた」と、あなたに教えてくれるのは聖霊です。これが、バプテスマのヨハネが「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言った「聖霊のバプテスマ」です。

 私も、罪を悔い改め、イエス様を救い主として受け入れた者に、水でバプテスマを授けます。これは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)と言われるイエス様が、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:19)と、権能を託してくださったからです。そしてこう言われるイエス様が共にいて、聖霊のバプテスマをも授けてくださるのです。

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