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礼拝説教要約(20171231日)

「救い主を見る目」        聖書・ルカ福音書22138

2017年の標語聖句 は「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(1テモテへの手紙2章1節)でした。

この標語聖句を1年間、覚え、祈り、生きてまいりましたか。1年前「今年は大きく変わる年、変わらなければならない年」と申しました。そしてそれは、主の助けと導きを祈らなければ成らないとも申しました。牧師交代は教会が更に成長する時でなければなりません。でも、皆が心を合わさなければ、一致を乱され、教会が弱体化してしまう危険をもはらんでいるのです。そのような例をいくつも見てまいりました。私自身、そのような体験を致しました。でも皆さんは心を一つにして祈り進んだと思います。そしてその結果を見ることが出来ていると嬉しく思います。皆さんは「横浜岡村教会は自分たちの教会、自分たちが支え成長させて行かなければ成らない」と自覚し、積極的になっているのを見ることが出来ます。

 今日の聖書箇所の登場人物、二人の老齢者も、祈りにより、勝利の喜びの声を挙げた人々だったのです。

 マリアとヨセフはイスラエルの律法に従い、生まれた男の子に、8日経って割礼を授けました。そして天使の御告げ通り「イエス」と名付けました。更に、男子を生んだときの清めの規定「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ7日間汚れている。8日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な33日の間、家にとどまる。」(レビ12:24)に従い、40日間が過ぎたとき、鳩2羽を献げ物としてエルサレムの神殿に詣でました。

本来は命の代価として、子羊を献げなければならなかったのですが、貧しくて、羊を献げられない者は、鳩でよいと規定(レビ記5章)されています。ヨセフが鳩を献げたところに、ヨセフの家の貧しさを見ることが出来ます。しかし、イエス様が赤ちゃんで自覚的に律法を守れない中で、両親が、すべて律法を全うされた。既にここから、イエス様が罪のない者として、贖いの救いをなす準備がされていたのです。

さて、ヨセフとマリアが幼子イエス様を連れて神殿に来た時、聖霊により「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(:26)老齢のシメオンも、また、聖霊に導かれて神殿にまいりました。聖霊は彼に、両親に抱かれて神殿に来た幼子こそ、約束の救い主であることを示されました。この時こそ、旧約の偉大な人物たちが、願っても得られなかった最高の恵みをシメオンが得た時でした。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」(ヘブライ11:13)  シメオンの喜びはいかばかりでしょう。幼子イエス様を抱いて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(:29~32)と喜びを祈り、褒め称えました。これは感謝の祈りであると共に、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー」(:34~35)とマリアへ伝えられた預言でもあります。

シメオンがこの恵みに預かったのは、彼が位の高い祭司、特別な能力を持った人物だったからではありません。「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(:25)からです。そのような人こそ、救い主を見出し、救いの慰めを得る人です。

もう一人の老齢の女性アンナもそうでした。彼女はアシェル族と記されています。アシェル族は北イスラエルの部族で、アッシリアによって700年以上も前に滅ばされ、消えてしまった部族です。南ユダの人々からは救いの約束の民からは離された異邦人扱いの女性でした。しかし、彼女の主なる神に対する真実な信仰心が、赤ちゃんイエス様を「救い主」と見出したのです。そして、救いを待ち望んでいる人々皆に、幼子イエス様のことを話し伝えました。

真実な信仰心と、自らの滅び行く哀れな姿を知り、真の悔いた心、そして真の救いを祈り求める者のみが、救い主を見出すのです。

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