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礼拝説教要約(20171217日)

「神様からのプレゼント」
      聖書・マタイ福音書11825

 聖書を読み始めて、先ず戸惑うのは、先週も見ましたとおり、カタカナの名の羅列であります。つまり、イエス様誕生に至る系図が書かれていることであります。しかし、この1ページに満たない系図によって、旧約聖書の全体像を示しているのであります。

 人間独自の歴史は、罪と滅亡の歴史であります。神によって創造され、神の霊を与えられた人間が、造り主なる神を否定して歩み出したことにより、兄弟殺しという罪を犯しました。それ以後の人間の歴史は戦いの歴史、栄枯盛衰であります。でも、罪を犯し、人間が神に顔を向けなくなった最初から、「お前(サタン)と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)と、救い主は人間として来られることが記されています。神は自分のおられる高嶺から、ただ助けの御手を延ばされるだけのお方ではありません。人間と同じ弱さを持った者として、同じく誘惑、試練をも経験する者として、肉体を持ってこの世に人として生まれるとの約束です。この時点では、どの民族から救い主が生まれるかは不明です。

 そして、滅びに向かう文明の中から、全人類の祝福の源と成るアブラハムを、神は選び出されました。それゆえマタイは、神の恵みによる救いの歴史の最初にアブラハムを記しているのです。アブラハムの子孫がイスラエル民族であります。そして更に、この民族の中からユダ部族のダビデを選び、その王座は永遠に立てられると言われます。それ故に、イスラエルの民は、救い主はダビデの末裔としておいでになる、と受け止めるようになりました。そして生まれる場所まで、ダビデの町ベツレヘムと預言されているのです。

 ダビデの家系にあるヨセフは、既に王家の地位も名誉も、ましてや財産もない貧しい大工でありました。アブラハム、ダビデ、ヨセフが神に選ばれたのは、彼らに選ばれるべき、他人に秀でたものがあったわけではありません。ただ一方的に、神の恵みであります。アブラハムがエジプトで恐れて、身の保全のため偽りを言った時、ダビデがバテシバに横恋慕して、その夫ウリヤを死に至らしめた時、神に見捨てられても致し方なかったのです。

 また先週、マリアが聖霊によって身ごもったことについて話しましたが、婚約者のヨセフが、「マリアは懐妊している」と知ったのは、2,3ヶ月後のことであったでしょう。マリアに尋ねると「天使が来られて、聖霊によって身ごもることを告げられた。」と言う。でもそんな話をヨセフが信じられるはずがありません。人は誰でも経験と常識から物事を判断するのです。ヨセフがマリアの言葉を信じられなかったとしても致し方ありません。でも、ヨセフのマリアへの愛は本物でした。マリアの不義を恨んでマリアを告発したなら、マリアは死刑であります。しかしヨセフは、マリアにとって自分以上に愛する者がいて、その人と結婚することが、本当に幸せになるのならそれで良いと、秘かに縁を切ろうと思ったのです。しかし、神の配慮は行き届いています。そのヨセフのもとにも天使が現れました。そして、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(:20)と言われたのです。それだけでなく、生まれてくる子は男の子であり、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(:21)と言われたのです。それは、マリアへの御告げと同じであり、「生まれてくる子は、あなたたちが待ち望んでいる救い主だよ!」と言われていることをヨセフは理解しました。更に、イザヤの預言した「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(イザヤ7:14)との実現であると言われたのです。ヨセフは御告げをそのまま納得し、受け入れました。それは、マリアを正式に妻として受け入れたということであります。

 でもなんと幸いなことでしょう。罪を取り除いてくださるだけでなく、「インマヌエル」神が私たち人間と共にいてくださるとの約束です。神が自分と共にいてくださると信じることが出来る人ほど幸いな人はいません。すべての試練を乗り越えて、神が計画している更に素晴らしい祝福をいただけるのです。すべての不安、恐れからも解放されます。全知全能であられる神が共におられるのですから。これがインマヌエルの主イエス・キリストという、人間への、そしてあなたへの神様からのクリスマスプレゼントなのです。

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