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礼拝説教要約(20171119日)

「神ご自身が備えてくださる」    聖書・創世記22118

 今日の聖書箇所を読むとき、いぶかしく思う人も多いのではないでしょうか。現代は人権が重んじられるようになりましたから、人身御供というようなことは無くなりました。もし行なったとすれば、それは明らかに犯罪です。しかし、自然の災害によって簡単に人命が失われていた古代社会では、この自然災害を鎮めるために、人命を捧げる風習がありました。山津波や河川の氾濫による災害への恐怖心が、この災いを起こすものを神格化しました。荒れ狂う河川は大蛇、山津波は竜神のたたり等と考えました。これを鎮めるために、人を荒れ狂う川に投げ入れたり、予防のための工事の時、人柱として埋めたりしました。このような昔話が日本の各地にあります。単なる昔話ではなく、現実にこういうことが行なわれていたのです。これは日本だけではありません。原始宗教であるアミニズム(すべてに霊が宿っているとの考え)の世界では、目に見えない霊を恐れ、災いが起こらないようにと、人身御供という考え、行為がなされていたのです。

 イスラエルの民が定住することになるカナンの地にも、モレクという神に、人身御供を捧げ、火で焼く風習がありました。「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。」(レビ記18:21)と禁止されているとおりです。

 でも、今日の聖書箇所では、主なる神がアブラハムに、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(:2)と言っています。天地を創造された神も同じなのか?との疑問が訝しさとなっているのです。しかし、主なる神にはそのような考えはない。そのような行動を求めてはいないということを、アブラハムに示しているのが、今日の出来事です。

 それ故、この箇所の書き出しに、「神はアブラハムを試された。」(:1)とあるのです。神がアブラハムに「イサクを献げよ」と命じる時、既に答えも準備しておられたのです。神は、祝福の器として用いる者を先ず、試みられるのです。モーセをイスラエルの民救出の指導者として用いる時もそうでした。イエス様でさえ使命に立つ前に試みられたのです。そして、神を畏敬し、神のことばに信頼する者を、神の祝福を伝える器としてお用いになるのです。

 アブラハムは100歳にして後継者のイサクを与えられ、大事に育ててきました。神の約束の果たされる望みを強くし、穏やかな日々を過ごしていました。しかし、イサクが中学生ぐらいに成長した頃でしょうか。先の命令があったのです。アブラハムは今までの体験から、神を信頼し、神の言葉に従いました。不安か全くなかったわけではないでしょう。しかし、ヘブライ人の記者が「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(11:19)と記しているように、神の全能を信じました。

 イサクもまた、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(:7)と、いぶかしく思い父に尋ねました。アブラハムは神を信じていましたが、明確な答えを持っていたわけではありません。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」(:8)と、希望を語るほかありませんでした。それでも、イサクにとっては充分でした。イサクもまた、父を信じ、神を信じていたのです。156歳になっているイサクが、110数歳の老齢の父に抗ったなら、犠牲となることなく簡単に逃げおおせたでしょう。しかし彼も、信仰に立って、犠牲の小羊になる覚悟をしました。それはちょうど、イエス様が、人間を救う使命のために、父なる神から遣わされたことを信じ「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)とあるのと同じです。イサクも父と神に従いました。この箇所はそのようなイエス様の十字架の死と、3日目の復活をも予表していると言えます。神は死者をさえ復活させ得る全能の力と愛で、善き事を準備しておられるのです。

 神が私たちに試練を与える時、私たちは、神の答えを正確に知らない場合が多くあります。でも、主は私たちの思いを越えた最善の答えを、必ず準備していてくださることを信じて、前進しなければなりません。アブラハムが山に登りきって初めて、神の備えたものを見出したように、私たちも、神のことばに従いきる時、神の答えを見出すのです。私たちも途中であきらめることなく、試練に立ち向かいましょう。神は備えてくださっています。

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