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礼拝説教要約(20171029日)

必至な執り成しの祈り」      聖書・創世記181633

 人間の力を超えた存在(人はそれを神と呼ぶ)に対して願うことを、普通には「祈り」と考えます。でも、キリスト教で祈りを定義するなら、「神との交わり」と言う方がもっと正しいでしょう。なぜなら、キリスト教の祈りの代表として取り上げられるのは、エリ先生が少年サムエルに教えた「主よ、お話ください。僕は聞いております。」(サムエル上2:9)だからです。語りかけ、聞くという神との会話が祈りなのです。キリスト教の祈りをもっと具体的に言うなら、讃美、感謝、罪の告白、祈願、執り成し等の要素があります。この世の人々(偶像崇拝者)の祈りは、自分の願いを言うか、愛する者のために願い求めるかぐらいです。そして、自分の願いを聞いてくれるものを神として拝む、聞いてくれないなら、捨て去るのです。これでは人間の方が神より上位にいることになります。そこには神が人間にとって近寄り難い、聖なるお方としての畏敬の念はありません。でも神とは、本来、罪ある人間が近づくことを許されない「聖」なるお方であります。

 この聖なるお方を褒め称えるのが讃美です。私もそれ故、手紙の冒頭は「主の聖名を讃美します」で多くは始まっています。聖書の詩編を見ても、「主を讃美せよ」「主をほめたたえよ」と何回も書かれています。多く聖書に記されているハレルヤとは、「ヤ」創造主なる神・ヤーウェをハレル・ほめたたえよ、の合体語です。

 私たちの周囲には感謝が満ちあふれています。今日、目覚めたことも、起きられたことも、手足が動くことも、食べられたことも、話せることも、無事運転できたことも、数えたら限りがないほどです。でも、10の感謝することよりも、1つの苦しみに心を奪われ、不満を漏らしてしまうのが私たちではないでしょうか。聖書の中に、10人の重い皮膚病の人が、イエス様に癒しを求めて、遠くから大声で叫びました。重い皮膚病の癒されたことは祭司の所に行って証明してもらわねばなりません。ですからイエス様はこの10人に、祭司の元に行きなさいと言いました。10人は祭司の元に行く途中で、病の癒されている事に気付きました。でも、感謝するために、イエス様のところに帰って来たのは一人だけでした。これと同じように、人は感謝し、神を賛美する事を忘れがちです。

 罪の告白も同じです。大方の人は、自分を罪人とは思っていないので、神の前に罪を告白するということもしません。イエス様はこのような譬え話をしました。二人の人が祈るために神殿に来た。一人はファリサイ人(自分は義人と思っている人)で、もう一人は徴税人(自分は罪人と思っている人)であった。ファリサイ人は自分が正しく生きている事を感謝し、責任を果たしている事を誇って祈った。しかし徴税人は、自分が罪びとであることを感じ「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈った。この二人のうち、義とされて帰ったのは徴税人であった。日々、主なる神の前に過ちを、足らざるを告白したいものです。

祈願に関しては他の宗教も同じでしょう。しかし、キリスト教の祈りの特徴は、他の人のため祈り求めることです。これを執り成しの祈りと言います。愛する自分の子、親族、友のためだけでなく、主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言われます。またパウロも「あなたがたは迫害する者のため祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)と言っています。人間の努力や修行ではできません。これは神の業です。神の愛を受け、満たして頂き、愛の人と変えられねばなりません。

今日のアブラハムの祈りも、執り成しの祈りです。彼は悪に満ちたソドムのために祈っています。それはソドムに住む甥のロトの守りを願い求めずにはおれなかったからです。その事情はこうです。3人の人(2人の天使と主)は、アブラハムに、サラによる男の子の誕生を告げた後、ソドムの裁きを告知します。その事を聞いたアブラハムの必至の祈りが始まります。

死海の南西岸の周辺に灰と化した遺跡が発掘されています。かつては大いに栄えたであろう都市は、調査によると、少なく見積もっても人口100万人規模の都市であったろうと言われております。アブラハムは神に、その中に50(2万分の1)の正しい人がいても、2万倍の悪人の故にこの町を滅ぼすのかと問います。神は50人のゆえに、滅ぼさないと答えられました。神は決して集団責任として、正しい人を含めて裁くことをしないと悟ったアブラハムは、執拗に、45人、40人、30人、20人、更に必至に10人の正しい人がいたらどうですか?(:32)と執り成し続けます。神は彼の祈りを聞いてくださいましたが、残念ながら10人さえ正しい人はいなかったのです。神の基準では一人も正しい人はいない。でも主はアブラハムの必至な祈りに応え、ロトの家族に裁きの猶予を与えてくださいました。祈りは聞かれたのです。この事を思い、私たちのために十字架の上で執り成してくださったイエス様の祈りを心に留めたいものです。

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