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礼拝説教要約(2017108日)

「神のことば聖書」         聖書・創世記121029

 先週も「聖書こそ神のことばです」と申しました。神のことばだから、聖書に記されている約束は必ず実現するのです。そして、神のことば聖書には偽りがありません。だから、聖書に出てくる人物についても公平に、正確に書いてあります。つまり、人間であって罪の無い人はおりません。聖書ははっきりと「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と言っています。ですから、聖書で主人公となっている人物の欠点や弱さ、罪を犯したこともはっきりと記しています。この世では、歴史上の人物、特に伝記に書かれる偉人や王たちは、何の過ちも犯さなかった聖人君子として描かれています。その国の支配者は、自分を権威付けるため、総てにおいて正しく、欠点の無い完全な者、まさに神の如き者として書かせるのです。日本の歴史においてもそうでした。だから天皇を神と勘違いしてしまったのです。支配者は権威そのもの、つまり、神としてしまったのは日本だけではありません。多くの国で、王を神、または神の子孫として、偶像を造り拝ませました。ローマの皇帝礼拝等もその一例です。

 アブラハムはイスラエル民族の最も偉大な祖先です。しかし聖書は、彼を美化することなく、本日の箇所のように、その弱さ、過ちをも赤裸々に書いてあるのです。

 アブラムはついに約束の地・カナンに来ました。そこに祭壇を築いて主を礼拝しました。でもそこには、以前よりカナン人が住んでいました。アブラムは主なる神の「あなたの子孫にこの土地をあたえる。」(:7)との言葉を信じましたが、約束はすぐに実現するのではないことも悟りました。戦いを避けたいアブラムは、信仰と忍耐を持ちつつ、更に、約束の地を南下し、ベテルに至り、そこにも祭壇を築きました。そこも安住の地ではなく旅は続き、約束の地を通り越し、ネゲブにまで来ました。そこでは飢饉にまで遭い、なかなか実現しない長びく旅路に、肉体も霊的にも弱ってしまったのでしょう。ここでは祭壇を築き神に問うということを忘れ、エジプトへと下っていったのです。この頃、エジプトは豊かに栄えた国でありました。ネゲブにいては餓死する、エジプトに行けば食べて生きることだけはできるとの人間的判断からでした。日本においても地方の貧しい民が、東京に行けば、食うだけはどうにか成るだろうと、上京したのと同じような感覚だったでしょう。アブラムはウルの地を出立してもう何十年たっていたでしょうか。ウルからの距離は2,000kmにもなります。2,000kmを日本に当てはめて言うと、北海道の知床から、北海道、本州、九州を経て奄美大島にまでいたります。このような失望続きの長旅に、信仰が弱ったアブラムを責められますか?

 でも、神に祈らないことが失敗の元なのです。全能なる神が共に居てくださるとの信仰が揺らぐと、この世の恐れが心を支配します。アブラムも試練続きの中で、信仰が弱り、この世を代表するエジプトの偉大さに恐れを抱きました。そして自分の命惜しさに、妻サライを妹と偽ったのです。確かに、サライは母親の違うテラの子でしたから、妹でもあるのです(創世記20:12)。でも、エジプト王を欺こうとして妻であることを隠し「妹」と紹介したのですから、これは明らかに偽りであり、罪であります。

 美しいサライはファラオの目にとまり、側室として迎えられました。アブラムはサライの兄として「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられ」(:16)、アブラムの策は成功したかに見えます。しかし、人は騙せても、神を騙すことはできません。このようなアブラムの不信仰に陥った醜態も、聖書はありのままに書いてあります。

 でも神はアブラムを守り、正し、真の幸いへと導かれます。それは、神御自身がアブラムに立てた約束に対し真実であるためです。神はどんな時にも偽ることの無いお方です。このように真実な神の約束と愛とが記されているもの、それが聖書です。

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