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礼拝説教要約(2017年9月3日)

何回赦すべきでしょうか」  聖書・マタイ福音書182135

 創立記念日礼拝の説教要約を、本日発行の「岡村の泉」巻頭言に掲載しています。そこでパウロは、福音において最も大切なことはイエス・キリストの十字架による死(贖い)と復活であると言っています。そしてこれらを通して示されていることが赦しであります。だから、キリスト教は赦しの宗教と言うことができます。その意味に於いて、今日の例え話は、「信仰を実践しなさい」との勧めであります。

 人を赦すということが、どんなに難しいかは、皆さんも体験しているのではないでしょうか。「赦す」と言いながら、受けた傷は、なかなか心の深みから消えません。後の日になって、「又、そんなことを!」とか「前にも同じ事をしたじゃないか!」という言葉が出るとするなら、それは、心底から赦してはいないからです。神様が私たちを赦すと言う時には、完全に忘れ、もう思い出すことも無いという赦し方です。「わたしは、彼の不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」(ヘブライ812) 「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。」(ヘブライ1017)と主なる神は言われます。私は、自分を裏切り、最も大きな試練に遭わせた人々を、信仰によって赦してはいますが、残念ながら、完全に忘れ消し去ったという状態ではありません。時として、心の傷は疼くのです。

 イエス様はこれまでにも弟子たちに、「復讐してはならない」「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「あなたの敵を愛しなさい」とまで言われました。この例話の直前にも「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」(18:15)と言っています。忠告とは、赦しているからこそ、愛をもって、相手を立ち直らせようとする行為です。また、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」(:17)とも言われます。これは、自分で処理しようとしないで、神に委ねるということです。

 このようにイエス様が、「赦し、委ねる」ことの大事さを話されたので、ペトロは、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」(:21)と、少々、得意げな思いをもって尋ねました。なぜならユダヤ教のラビたちの赦しに関する考えは、「3度までは赦しがあるが4度目は赦されない」とか「赦しは、3度以上は乞うてはならない」だったからです。このような考え方は世界共通かもしれません。仏教でも「仏の顔は3度まで」という言葉があります。だからペトロは3回を倍し、更に1回を加えた7回も赦すなら、もう十分だろうと思ったのではないでしょうか。しかしイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」(:22)と言われました。本来、イスラエルにおいて「7」は完全数字です。ですからこれは完全に、無限に赦しなさいということです。でも、赦しには条件があります。イエス様も「1日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:4)と言われました。本来、罪は悔い改め無しには赦されることのないものなのです。

 でも、無限に赦すことなんて不可能と弟子たちは思ったことでしょう。私とてそうです。それ故、今日の例話をイエス様は語られたのです。

 王から家来が借りているお金は1万タラントンです。1タラントンとは6000デナリオンです。この頃、1日働いた賃金が1デナリオンでしたから、毎日は働けないので、計算し易いように1年300日働いたとして、1タラントンは20年分の賃金です。ここに言われているのは1万タラントンですから、20万年分の借金ということになります。到底、返済不可能な借金ですが、王は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてくださいました。しかしこの家来は、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会って、「借金を返せ」と迫り、返せない仲間を引っ張って行き、返すまでと牢に入れてしまいました。

 この王とは神です。そして家来とは私たちです。私たちの神への負債・罪は、到底、善行をもって支払うことの出来ない無限なものです。しかし神はその罪を完全に帳消しにしてくださいました。どのようにしてでしょう。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)とあります。罪は死をもって償わねばならないものです。イエス様は私たちの罪を贖うために、ご自身の命を代価として、支払ってくださいました。それが、イエス様の十字架で死なれた意味です。この神の無限の愛を心で受け取るとき、私たちも赦せる愛の人へと変えられるのです。

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