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礼拝説教要約(2017827日)
「みことばの種の蒔かれる地」  
聖書・マタイ福音書13123

 つくばに住まいを移して、今日の聖書箇所に書いてある種蒔きの状況を体験しています。種蒔きの仕方は、昔と今というより、お国柄の違いがあるでしょう。又、土地の広さの違いもあって状況は異なってきます。私の場合は、ほんの小さな畑というより、前庭に種を一粒ずつ、置くように植えるので、道や石地に蒔かれることはありません。でも、ミレーの「種を蒔く人」という絵がありますが、広い地に腕を大きく横に振りながら種を蒔いています。当然、風に舞ったりして、種は畑の外へも、石地、藪の中にも落ちてしまうことでしょう。これらは鳥に食べられたり、芽を出しても日照りが続くと、すぐに枯れてしまいます。雑草や茨の地に落ちたものは生育を妨げられ、実を結ぶまでにはなりません。

私も体験していると言ったのは、土地が狭いので、色々な種を間近に植えているため、特にさつま芋が生い茂り、他の苗が陽光を受けられず死んでしまったりしています。虫に若芽を食べられて消えて行くものもあります。それで、トレーに土を入れて種を蒔いたら、虫には食べられませんでしたが、すぐに土が乾いて枯れたものもありました。再度、種を蒔いてきましたが、先週は火曜日に横浜に来、今週は北海道に行くので、帰りは来週です。つくばに帰ったら、どうなっていることか?又、枯れていたり、雑草に覆われているだろうなと推測できます。でも、土地は肥えているので、順調に育ったトマト、ゴーヤにキュウリ、南瓜やオクラは食べきれないほど豊作です。

 でも、イエス様の話されたのは、このような畑や作物のことではありません。これは神の国の真理を解り易く説明するための例え話です。では、種と土地に関する神の国の真理とは何でしょう。「種の蒔かれた地」とは人の心です。蒔かれる種は神の言葉であると、イエス様が解き明かしてくださいました。

 「道」は人の歩き続けた所です。それは人間の習慣、常識となってゆきます。では多くの人の歩いた道が正しい道でしょうか。否と言わねばなりません。先週も聖書から学びましたように、「人が見て自ら正しいとする道でも、その終わりはついに死に至る道となるものがある。」のです。それ以上に、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行なう者はいない。ただの一人もいない。」と、この世の常は滅びの道だと聖書は言っています。心が踏み固められ、神の言葉という種を受け入れないなら、「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者(サタン)が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。」(:19)と言われます。

 「石地」とは、表面に土はあるが、すぐ下に石のあるところです。暖められ、すぐに芽を出すが、根を張っていないため、少しの日照りで枯れるのです。これは、御ことばを喜んで受け入れるが、心に御ことばが根を張っていないため、小さな迫害、困難がおこると離れて行く人々です。一時の感情、流行で終わることはまことに残念です。戦後、日本にはキリスト教ブームがありました。戦勝国アメリカがキリスト教国だったこともあるでしょう。又、アメリカ等からの救援物資が、教会を通して配布されたりもしたからでしょう。当教会も創立期、多くの人が来て1年に30人以上もの人が洗礼を受けました。しかし、教会員の数は思うほど多くはならず、いつの間にか消えてゆく人々が多くいました。

 「茨の中」とは、芽を出した種よりも、茨や雑草の勢力が強く、十分に日光を受けられない所です。「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」(:22) このような人が何と多いことでしょう。この世の富や権力よりも、もっと大事なもの、真に人を幸いにするものがあることに気付き、出あって欲しい。

 でももちろん、やわらかい心で御言葉を受け入れ、御言葉を読み続け、しっかりとキリストに根を下ろし、豊かな実を稔らせる人々がいます。確かに「あるものは百倍、あるものは60倍あるものは30倍の実を結ぶのである。」(:23)とは真実です。そのような人々がいたからこそ、一握りのクリスチャンたちが、今や、全世界に広がっているのです。さて、あなたの心はどんな地ですか?

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