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礼拝説教要約(2017813日)(第68 創立記念日礼拝)   

「キリストを信じる者の群れ」   聖書・Ⅰコリント15111

パウロが最も大切なこととして伝えたものは「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(3~4)であります。つまり、イエス・キリストの十字架の死と復活であります。これが、福音と呼ばれるものの中心でありますから、聞いただけでなく「受け入れ、生活のよりどころ」(:1)としているのがキリスト者です。これを信じる者の群れが教会であります。

たぶん、キリストの死を否定する人はいないでしょう。しかし、キリストの死を、自分の罪の贖いの死と受け止める者の何と少ないことでしょうか。復活については、自分はクリスチャンという人の中にさえ信じていない人がいます。このような人はどこから力を得るのでしょうか。自分の力で「いと小さき者と共に」というのであれば、それは信仰ではありません。ヒューマニズム(人道主義)です。でも復活は、人の頭(経験の積み重ね、常識)ではあり得ない事だから、否定しがちです。初代キリスト教にあっても信じられない人々がいたようです。だからパウロはキリストの復活の確かなことを実際に即して書き示しました。

「ケファに現われ、その後12人に現れたことです。次いで、5百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(:5~6)と書いたのは、“復活を嘘だと思うなら、復活の主イエス・キリストに出会った人々が、未だ生きているのだから聞いてみなさい。”と言いたかったのでしょう。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と体験を語っています。サウロと呼ばれていた頃のパウロは“イエスは自分のことを神の子・救い主だ”と言っている神の冒涜者だ。そのイエスを“神の独り子・キリスト”と信じている者たちも同じく冒涜者だとして迫害していました。更に息を弾ませ、クリスチャンたちを捕らえるためダマスコ途上にあった時、「突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」(使徒言行録9:3~4)のです。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(:5)との答えで、パウロは自分の今までの常識を覆されるとともに、イエスが復活されたことを受け入れたのです。それはイエスをキリストと信じるクリスチャンになったということです。

復活の主イエス・キリストが共にいてくださる。これがクリスチャンの力の元であると共に、「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(:10)と言える謙遜の元なのです。このような福音信仰に生きる時、人の隔ては消えます。そして、国境、人種を越えて心を一つにできるのです。そのような証し人によって横浜岡村教会も立てられました。

それがドイツのリーベンゼラ宣教団の一員であったエルンスト・ラング師です。彼は1897年の生まれですから、今年が生誕120年です。来日は1928年で、菊名で伝道を初め横浜菊名教会が生まれました。戦時中もドイツに帰ることなく、軽井沢の地で、軟禁状態の厳しい時代を経て、倉持芳雄牧師と出会い1946年、横浜福音医療宣教団を設立しました。これが私どもの教会の母教会となった清水ヶ丘教会です。そして、月島教会で倉持芳雄牧師の日曜学校の先生だった梅澤幸太郎牧師を、19497月、真岡から迎え、8月には横浜福音医療宣教団根岸橋教会が設立されました。梅沢牧師を迎えたときには既に、教会になる準備が整えられていたのです。これは信徒の先立った働きがあったからです。自分たちの教会が信徒伝道によって設立されたということを心に留めて欲しいと思います。母教会の清水ヶ丘教会が日本基督教団に加わると共に、当教会も1954年日本基督教団根岸橋教会となりました。更に1955年には岡村の地に会堂を建設し、横浜岡村教会と改名しました。

私たちも、このような聖書の中に記されている、イエス・キリストの十字架の死による贖いの信仰と復活信仰の流れの中にある、キリストを信じる者の群れであることを心に刻み付けておきたい。

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