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礼拝説教要約(2017716日)

「罪に定めない」          聖書・ヨハネ福音書8111

 どの時代でもイエス様についての反応は種々あります。好意的な者もおれば、迫害する者もいます。そして私たちのように救い主として受け入れ、イエス様の弟子となって従って行く者もいます。でも、未だ十字架の出来事も、復活もない、一人の人間としておられた時のイエス様への対応は、もっと複雑でした。

 「『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。」(ヨハネ7:12)。でも「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。」(7:31)とあるように、大勢の群衆がイエス様を偉大なラビ、救い主かもと好意的に受け止めていました。それゆえ、もはやイエス様に公には捕らえることが出来ない状態でした。しかし、イスラエルの指導者たちである祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々はイエス様に反感を抱き、捕らえ殺そうと秘かに策を練りました。それが本日の、①イエス様を律法に反する者・罪人として捕らえるか。②今まで語っていた愛の人と違う行為を行なう者として、群衆の信頼、人気を損なわせる、という策略でした。

 「姦通の現場で捕らえられた女」(:2)は、律法に従えば「姦淫してはならない。」(出エジプト20:14)との十戒に反する行為です。そしてこのような者は「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。…町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」(申命記22:22,24)とあるとおりです。でも現代、これをどれだけ罪、「死をもって償わねばならない罪」と感じているだろうか。武士の時代の日本では、不義密通は死罪と定められていました。しかし今は、「不倫」と言う言葉で表現し、“倫理的には反するかもしれないが、他人に迷惑をかけるわけじゃないから(本当は大迷惑)”と罪意識の無い状況が蔓延しています。それは日本人の罪意識が、他人に迷惑=罪だからです。しかし聖書は、人間同士の迷惑関係(これは罪から派生してくる)より、神の御旨に反することが罪であると言います。

 今日の聖書の出来事は、神の民から罪をなくするという律法の純粋な動機からでなく、イエス様を告発するための策略であることは明らかです。姦通の現場なら、男女二人のはずで、女性のみということはあり得ません。「イエスを試して、訴える口実を得るため」(:6)でした。それに対してイエス様の応答は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(:7)でした。これを聞いた人々の反応は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(:9)とあります。“自分は罪が無いとは言えない”“罪を裁く資格など自分にはない”との感覚は、さすが神の民と言えるものでした。罪を裁き得るのは神のみです。

 そしてイエス様も「わたしもあなたを罪に定めない。」(:11)と言われました。では、イエス様も罪ある人間として、他者を罪に定めなかったのでしょうか? そうではありません。イエス様は唯ひとり、神と等しい清さを持った「神の独り子」です。だからこそ、御自分が身代わりに裁かれることで、私どもの罪を消し去る救い主となられたのです。

 罪は裁くことで消えるものではありません。ノアの時代の裁きを見ても、人間の心の深みにある罪を消すことができなかったことは明らかです。罪は愛をもって赦していただく以外には消えません。また、自分で罪に気付き、真の悔い改めをしない限り、罪は再発してしまいます。「悔い改め」とは、自分が悪かったと悔い、後悔することではありません。神に背を向け、自分の考えで進んできたことを悔いて、方向転換をし、神に顔を向け、神の御旨を求めて生きようとすることです。

 イエス様は、罪の女が逃げ出さず、イエス様の前に留まり、悔い改めている心を見られました。だから「罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(:11)と、赦しと励ましの言葉をかけられたのです。これこそが、イエス様がこの世に来られた使命・働きです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ317)

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