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礼拝説教要約(2017514日)

「神にかたどって造られた人間」       聖書・創世記2:4~25

 先週、真の神とは、絶対無比の唯一のお方「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)と言いました。しかし、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1:26)と、神が「我々」と複数形で書いてあると、やっぱり、神は多くいるのではないか?と疑問が湧くかもしれません。

でもこれは、複数形なのではなく、偉大さ、尊厳を示す表現方法なのです。英語で王が自分のことを「We」と複数形で表現するのと同じです。というより、聖書の唯一絶対な神を「We」で表わすので、それに倣って、唯一絶対な王なのだと示すための複数形表現になったのであろうと思われます。

 その偉大な神が人間を御自分の形に創造された。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(1:27) 人は他の被造物と違い、神に似た者として創造されたのです。何と畏れ多いことでしょう。神は霊ですから、私たちが見るような姿形があるわけではありません。ですから、「神の形」とは「神の心」に似せてということであります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(:7)のです。息とは霊であります。霊である神のその霊を頂き、人は神と、心と心をもって交わることができる存在として創造されたのです。神との交わり、それは、神との会話である祈りをとおして交わるのです。祈りこそが神の心、御旨を知る方法です。

 では、何故に、人は神に似た者として造られたのでしょうか。それは、神の御旨を地上にあって果たすためです。「神の御旨に従って生き、又、託されたものを生かしてゆく」これが人間の使命ということができます。

 その使命は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)とあります。しかしこの言葉を誤解してはなりません。人間がしたい放題をしてよいということではありません。人間が専横的に支配するなら、自然は破壊され、命あるものは滅んで行きます。「支配せよ」とは口語訳聖書にある「治めよ」ということです。それは被造物が創造されるに当たり、神の意図されたように、活き活きと生きられるようにするのが人間に託された使命ということです。だから「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(:15)ともあります。地を耕し、守り、育むことが神の御旨なのです。

 なのに、人間は昔も今も、守り育むよりは、破壊し、滅ぼしつつあります。それは人間が神の霊を失っているからです。本来、人間は神に造られたのですから、神の支配の下にあるべきものです。だが神は、人間を御自分の思いのままに操るロボットとはしないで、自由を与えられました。何にも支配されない自由は、人間の尊厳を支えているものです。だから、人が人を支配することもしてはならないのです。しかし、人間はこの自由意志をもって、神の御旨を果たすよりは、サタンに唆されて、自分の欲望を満足させる道を選び取ったのです。これが罪でありますが、この事については、次週、考えたいと思います。それより、サタンの巧妙な誘惑は、いつしか人間の心を支配するようになりました。

 現代人の多くは、自由であると言いつつも、時間に支配されています。忙しい忙しいと時間に追い立てられて、ストレスをかかえています。又、感情をコントロールできず「切れる」人がいます。これも自分の意志ではなく、感情に支配されている姿です。又、自分の境遇を嘆く人がいます。そして責任を転嫁し、人を恨み、神を呪います。これらは時間、感情、境遇に支配されている証拠です。人は強制されてではなく、いやいやながらでもなく、自発的に、喜びをもって奉仕する存在として造られているのです。人は自分を治め、他者を育み、被造物を守ってゆくことを神から願われています。

 神からのこの使命を果たすため、良きパートナーとして、神は人を男と女とに創造されました。男女が心を一つにして神の御旨を生きるとき、神にかたどって造られた人間へと成長するのです。新約聖書では私たち人間はキリストの花嫁であることを示しています。「『人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31~32) キリストにある者として神の似姿を追い求めましょう。

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