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礼拝説教要約(2017416日)

「私は復活の主を見た」    聖書・ヨハネ福音書20118

 シャローム!皆さんに平安がありますように。ハッピーイースター

 今日は最も喜ばしい日です。クリスチャンだけでなく全人類にとって幸いな日なのです。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:3)と神が約束された出来事が完成したのです。全人類を救いの祝福に預からせる人が現れたのです。先週話したように、神の救いの計画は、イエス様が十字架に架かることで完成しました。そしてこれは、神様からの恵みとして与えられたものです。でも、それを受け取る者がいないなら、無駄になります。

 日本人は真面目だからか、何かを得るためには、何らか自分で修行、努力しなければならないと思い込んでいます。この世には只のものはない。又、只より高くつくものは無いとの考えがあります。でも罪を、修行することで無くし得るでしょうか。命をお金で買えるでしょうか。できません。罪の赦しは、イエス様が命を懸けて与えてくださった恵みです。「罪の支払う報酬は死」という死を、ご自身の死をもって滅ぼしてくださいました。何という愛でしょう。この恵みは「御独り子をさえ惜しまずお与えくださった」父なる神と同質の愛です。罪からの救いは神の恩寵の現れですが、この救いを保障する復活も一方的な神の恵みです。

 日本人の多くは、キリスト教は“良い”とわかっています。その証拠にキリスト教主義学校に多くの人が学びます。明治以来、福祉をリードしてきたのもクリスチャンたちだったことは周知のことです。キリスト教の素晴らしさを認めながら、でも、キリスト者になる人は少ない。なぜでしょう。それはキリストの復活がわからない、いえ、「キリストが復活したなどと、分けのわからないことを言うからキリスト者にはなり得ないのだ」と言う人もいます。

 一時、心臓が止まり、AEDで息を吹き返したというのであればまだしも、十字架上で息を引き取り、死んでいることを、槍で腹を突き刺して確認までした。そして墓に葬られた者が復活したなんてあるはずがない。確かにこれが常識であり、普通の受け止め方でしょう。しかし、聖書は、イエス・キリストは確かに復活されたと言い、キリスト者はそのように信じています。

 今日の聖書の箇所は、安息日明けの朝早く、墓に出かけた3人の婦人たち(マルコ16)の中、マグダラのマリアに焦点を当てています。墓に行ってみると、墓の入り口の石が取りのけてあり、イエス様のご遺体がありませんでした。マリアは誰かがご遺体を盗んでいったと思い、ペトロとヨハネに「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(:2)と言いました。ご遺体が無いとはどうしたことでしょう。誰かが盗んでいったと考えるべきでしょうか。では、誰が盗んでいったか推察してみましょう。

 ユダヤ人たちはイエス様が「自分は3日後に復活する」と言ったのを思い出し、墓の石に封印をして、3日目まで番兵をおいて見張らせました。(マタイ27:62~66)それでもご遺体がなくなりました。それで、祭司長たちは長老たちと相談して「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいった」と番兵たちに言わせました。(マタイ28:11~15)この時代、このような失態を犯したら、番兵は命をもって償わねばならないのですから、あり得ないことです。かえって、祭司長たちが盗んで行く可能性が高いです。なぜなら、弟子たちが「イエス様が復活された」と言った時、死体を見せることによって、弟子たちの偽りを立証できるからです。しかし、弟子たちがイエス様の復活を公言しても、祭司長たちは反論できなかったのですから、祭司長たちが盗んだのでもありませんでした。

 やはりイエス様は確かに復活されたのです。イエス様は「私は復活であり、命である」(ヨハネ11:25)と言われた通り、命の根源なるお方であられますから、復活によって、永遠の命があることを示されたのです。

 パウロは復活のイエス様を見た人々について「ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで、5百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(Ⅰコリント15:5~)と表明します。でも復活の主イエス・キリストを見た最初の人はマグダラのマリアです。彼女は「わたしは主を見ました」と証しする代表となりました。彼女は墓へ行った婦人たちと一緒に、弟子たちに知らせに行き、又、ペテロたちと来、彼らが帰っても一人だけ墓に残ったのです。そのマリアに復活の主は現れました。マリアは喜び、すがりついて、主を独り占めしたい思いがありました。しかし、復活の主は更に多くの人々に自分を現さねばなりません。未だ天(神の次元)へ帰っていない主は、同時に何箇所にでも現れることのできる偏在の主ではありません。だから独り占めはできないのです。でも、天に帰られた主は、いつでもどこでも御自分の存在を示すことのできる偏在の主です。初代の人々のように、私たちは肉眼の目で主をみることはできません。でも「私は主を見た」という証人がいます。また、心の目で主の臨在を見ることが出来ます。

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