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礼拝説教要約(2017326日)

十字架へ向かわれるイエス」 聖書・ヨハネ福音書18113

 先週イエス様のエルサレム入場について見ました。その後、イエス様はご自分の受難を予告し、又、弟子たちも迫害されることを話されました。でも、イエス様にしっかり繋がっているなら、幹にしっかり繋がっている枝がぶどうの実を稔らせるように、かならず実を結ぶようになるから、繋がり続けなさいと促します。弟子たちは当然、命懸けでイエス様について行くことを表明します。しかし、人間は自分が思う以上に心弱いものであること、躓き、裏切り、失敗し、離れて行き易いことを話されます。だから最後の晩餐の場で、主イエスは弟子たちの足を洗われました。そして「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(ヨハネ13:10)と言われました。これは、これからなされるイエス様の十字架の贖いによって、人の罪は赦され、全く清くしてもらえる。でも人は日々の歩みの中で、またもや罪を犯してしまう。その罪はそのたびに洗わなければならないことを示しています。それと共に「互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)と、支え、補い合うことの必要を説きます。そして今後はイエス様の御名によって祈ること、今はわからなくても、聖霊が全てを悟らせてくださると励まし、祈ってくださいました。

 最後の晩餐の場で話し終えると「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」(:4)る上で、ゲッセマネの園へと向かわれたのです。イエス様は弟子たちと共に度々、ここにおいでになり祈られました。ユダもそのことを良く知っていましたから、ユダに先導されて、祭司長たちやファリサイ派の遣わした下役たちと、ローマの1千人隊がやってきました。「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たち」(:12)とあります。10数人のイエス様一行を捕らえるため、100倍以上の兵士、下役たちが来たのは驚きです。私の感覚では100人でも多過ぎる人数です。でも、イエス様の群衆への影響力と、神業的働きをする力とを、いかに恐れていたかが伺われます。千人隊長が兵士を連れてこなければならないほど、怯え、万全の体制を整え捕らえに来たのです。

 逃げも隠れもしないイエス様は、すぐに見つかりました。いえ、兵士たちは暗夜でイエス様を捜さねばならないことを覚悟で、松明やともし火を、そして戦いに備えて武器をも持ってきたのです。しかし、イエス様の方から「進み出て、『誰を捜しているのか』」(:4)と問われました。「ナザレのイエスだ」との答えに、「わたしである」と更に進み出ました。兵士たちはその気迫と神的威厳に圧倒され、後ずさりし、地に倒れる者もいました。

 「キリスト教は、十字架に付けられ、死んだような者を神として崇める、哀れな宗教」と言う人もいます。しかしそれは誤解と言うより、全くの無知と言わねばなりません。

 イエス様は確かに十字架に付けられて死にました。でもそれは、戦いに敗れ、いやいやながら、殺されたのですか。そうではありません。イエス様の誕生の時、公生涯のスタートの時も、天使、天の軍勢の存在が記されています。イエス様ご自身「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:53)と、天の軍勢により勝利できる確信を持っていました。でも、戦うことは御旨ではありませんから、ペトロに「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(:11)と言われ、自分から進んで捕らえられたのです。

また、何か罪を犯したからですか?そうではありません。イエス様の言動にも、その心においてさえも罪を見出すことの出来る人はいません。罪の無い、神と等しく清く愛のお方(神の子)が、罪ある人間の身代わりに、神の裁きを受けてくださったのです。罪が僅かでもあるなら、その人は他者の身代わりにはなり得ません。その人自身の罪のために裁かれねばならないからです。他の宗教を悪く言うわけではありませんが、日本で聖人と崇められている仏陀も孔子も、他者の身代わりにはなり得ません。たとえば孔子自身「吾、70にして、己の欲するところを行なえど、法を越えず」と言っています。何と素晴らしい生き様でしょう。でもそれは、裏を返せば、70歳になるまでは過ちをも犯しましたということです。だから他者の身代わりにはなり得ません。ただ罪の無い神の子イエス様だけが、罪ある人間の身代わりになり、神の裁きを受けられたのです。それにより人間の罪は赦されているのです。

 イエス様が十字架にかかることは、神の最初からの救済計画でありました。十字架に向かわれるイエス様ご自身の意志でもあられました。もちろん、私たちと変わらない人間としてこの世に来られたのですから、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」とも祈られました。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と、ご自分から進んで十字架へと向かわれたのです。

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