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礼拝説教要約(2017319日)

「子ろばに乗られる王」     聖書・ヨハネ福音書12919

 いつもは“シャローム(平安があるように)”と、復活された主イエス様が弟子たちに対して掛けられた、最初のお言葉を挨拶言葉にしています。でも今日は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(13)と挨拶したいと思います。「ホサナ!」は、棕梠の主日のキリスト教国での挨拶となっています。ホサナの本来の意味は「おお!救いたまえ!」であります。でも普通には「ごきげんよう」とか「栄光あれ」という意味で用いられています。

 棕梠の主日は、イエス様が十字架に架かることを意識して、エルサレムに入場なさる過越の祭りの週であります。ですから今年で言えば、4月9日です。でも、ヨハネはイエス様の33年の歩みを11章までに纏め、棕梠の日からの1週間を10章も用いて記しています。それはこの1週間がどんなに重要であるかを表わしています。それ故、この受難の1週間のことを多く語るため、棕梠の主日までは未だ3週間ありますが、今日は早めて、棕梠の日と呼ばれるようになったイエス様入場の出来事について黙想したいと思います。

 この世の王様の乗り物は、専用機であり高級のリムジン、そし飾り立てた馬車、強さを表す馬です。国によっては飾り立てた象に乗る王もいるでしょう。しかし、ろばの子に乗る王がいるでしょうか? いません。誰一人としていません。“イエス様がいるじゃないか”と言われますでしょうか。確かにイエス様は子ろばに乗った唯一の王です。でも、イエス様はこの世の王ではありません。ローマ総督ピラトの質問に対し、イエス様は「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネ18:36)と答えられました。「そこでピラトが、『それではやはり王なのか』と言うと、…「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」(ヨハネ1837)と、御自分は「真理の国の王」であることを表明しました。「真理」とは永遠に変わらぬものです。時代を超え、どこの国であっても変わらぬものです。永遠に変わらぬ真理の国。それは平和と愛に満ちた、創造主なる神の御心にある国です。イエス様はこの真理の国の王なのです。それ故に、神の子とされた人々の心に王座を持つ王と言い換えることもできるでしょう。

 でもイエス様のエルサレム入場にあたり、大勢の群衆が、なつめやしの枝を持って、ホサナと歓呼の声をもって迎えたのは、イエス様が「しるし」をなさったからでした。“カナでの婚礼”“役人の息子の癒し”“パンの奇跡”“盲人の目を開き”“ラザロを甦らせた”イエス様。神にしかできないような大いなる力を持つイエス様なら、自分たちをローマの隷属から解放してくださるとの思い、願いから、自分たちの国の王として、これ以上の最適者はいないと思ったのです。

 しかしそれは、預言の言葉を正しく理解していなかったからです。イスラエルの王が、ろばの子に乗って入場なさるのは確かです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」と預言者ゼカリヤの預言(9:9)通りです。しかし預言は更に「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(:10)と続くのです。来られる王は馬に乗る戦いの王ではなく、平和の王なのです。

 この世の王は戦いに勝利して地を獲り、受け継いで行くと錯覚しています。又、この世の人々も、世界は力ある者が支配すると思っています。確かに、腕力、知力、金力ある者が権力を得、この世を支配しているように見えます。しかし、力の支配は、常に世界を破壊し、滅びへと向かわせています。イエス様は言われました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)と。地を受け継ぐのは力強き者ではありません。幼子のような純真な心、柔和な心で、平和の王なるイエス様を、心に迎え入れる者が地を受け継ぐのです。なぜなら、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と、神の子とされた平安な心のみが、真の平和を造り出すのです。

 イエス様は、神の国を受け継ぐ人々のため、ろばの子に乗り、柔和を示されたのです。子ろばに乗られる王、それは平和の王であります。

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