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礼拝説教要約(201735日)

「まことの神殿」       聖書・ヨハネ福音書21325

 今年は31日からレント(受難節)に入りました。十字架での死へ向かうイエス様の御苦しみを覚え、祈る季節です。そしてこの時を別名「四旬節」と言います。31日から40日目が、イエス様が十字架にかかることを覚悟されてエルサレムに入られた棕梠の主日です。この日からの1週間が受難週となります。

 今日の聖書箇所の宮清めの出来事は、イエス様の公生涯の初めにあった過越祭で起こったかのように記してあります。しかし、マタイ、マルコ、ルカ福音書によると公生涯の最後、この受難週にあった出来事として記されています。この違いについては、ヨハネが余り時間順に書くことに重きをおかなかったからでしょう。イエス様の神の子としての公生涯とそれに対する迫害も、エルサレムから始まったと言いたかったのでしょう。

 過越祭はイスラエル民族にとって、最も大事な祭りです。出エジプトという歴史に現わされた神の恵みを忘れないための祭りです。子羊を屠って、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗ることで、神の裁きの手が過ぎ越されました。そのようにしていないエジプトの家の長男たちが皆死んだのです。この出来事が出エジプトを成功させ、イスラエルの民は奴隷から解放されました。

 過越祭は感謝と喜びの祭りです。なのに、イエス様はなぜ、こんなにも怒られたのでしょう。「過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替している者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」(:13~15)という、イエス様らしくない蛮行です。そして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(:16)と言われたのです。

 今日、教会ではパウンドケーキとバナナブレッドを販売します。また、教会ではバザー等もします。これは教会を「商売の家」にしている行為でしょうか。否です。教会バザーには一般の人が喜んできます。バザーは会堂建築資金を得るためでもありましたが、教会の門を広げ、敷居を低くして、できるだけ多くの人が来るようにと願って行なわれるものです。バザーを通して教会に来るようになり、救いを得た人もいます。今日は教会でパウンドケーキを売るから、教会に行きたくないという人がいるでしょうか。もしそうだったら問題です。でもかえって、喜んでくれるなら、イエス様も、父なる神様も喜んでくださいます。

 イエス様が怒られたのは、この商売人や両替人のため、人々が、神殿に行きたくないと思ったからです。でも行かないと、罪の贖いが出来ない。それで、いやいやながら、しかたなく行くという状態になっていました。過越祭にはエルサレムから遠く離れた全国から、また、外国に出ているユダヤ人も、犠牲の捧げ物をし、罪を赦してもらうために集まってきました。外貨を両替しなければ神殿に納められなかったのです。その両替料がほうがいに高いのです。また、犠牲の羊や鳩も相場の何倍もしていました。そしてそこで買わなければならないような仕組みになっていたのです。なぜならこの両替人や商売人は祭司と同じレビ人で、グルになって金儲けをしていたのです。長い間の世襲のため、神殿に携わる働きを金儲けの道具とし、人々にいやな思いをさせるようになっていたのです。そのような神殿は神と出会う場ではなく、単なる建物であって、「強盗の巣」(マタイ21:13)とも呼ぶべき場になっていました。

 イエス様は預言者たちのように、この不正を指摘し、宮を清めようとしただけではありません。この神殿で行なわれる、罪の赦しを与える祭儀のあり方そのものを、根底から変えようとされたのです。人々が「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(:18)とイエス様の権威の所在を問うたとき、イエス様は「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」(:19)と答えられました。神殿は犠牲の捧げ物をし、罪を赦してもらう場所、そして罪赦された者として、神に近づき、神を礼拝する所です。イエス様はこの神殿の果たす使命をすべて完成されました。イエス様が十字架で死んだことは、神の裁きに対する罪の贖いのための犠牲の子羊となられたことを、「イエスが死者の中から復活されたとき」弟子たちは悟りました。だからヨハネは「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(:21)と記し、告白したのです。イエス様こそ「まことの神殿」なのです。私たちにはもはや、犠牲を捧げる神殿は必要ありません。イエス・キリストの体なる教会があります。

私たちはこのお方によって罪を赦され、神を礼拝する者となりました。だからこそ、主イエスに心からの感謝と喜びをもって、礼拝を捧げましよう。また、主イエスがなされたように、自分自身を捧げてまいりたいと願います。

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