行事案内

礼拝説教要約(20161218日)

「救い主の誕生」         聖書・ルカ福音書217

マラナ・タ「主よ、おいでください」という挨拶は、クリスマスにふさわしい挨拶です。イスラエルの民が救い主のおいでを待っていたように、私たちも主のおいでを待っています。彼らは預言者の預言によって、又、アブラハムやダビデと交わしてくださった神の契約によって、救い主の来臨を待っていました。彼らの場合は初臨です。でも、私たちの場合は主イエス・キリストご自身が約束してくださった再臨であります。そうですよね。アーメンですか!

しかし先週、「イエス様がお生まれになったこの時代こそ、南ユダ王国どころか、全世界が最も不信仰な時代だった」と言いました。使徒ヨハネはキリストの誕生について書いた一節に「言(主イエス)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:1011)と言っています。人間には神から祝福の道が備えられていました。しかし、人間はその道ではなく、滅びの道を選び取ったのです。人間自身では本来の歩みに立ち直るすべがないから、救い主は世に来たのです。

救い主は、当時、最も顧みられない、小さな貧しい村に生まれました。ベツレヘムは、今はダビデ王の出身地、そしてイエス様の誕生地として世界で最も有名な町として知られています。しかし、預言者は「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」(ミカ5:1)と言っています。そのようにベツレヘムは、ダビデ王が出るまでは小さな村でした。だからダビデ自身「わたしは貧しく、身分も低い者」(サムエル上18:23)と自分の出生を卑下するような言い方をしています。でもこの預言はマタイによって「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:6)と、イエス様の出生の預言へと再解釈されているのです。

さて、このダビデの村ベツレヘムへ向かう人が大勢います。マリアは親類のエリサベトに会うため、10ヶ月前、一人で往復した道です。しかし今回は、大勢の中の一人とはいえ、今日か明日にでも赤ちゃんが生まれそうな、大きなお腹をかかえての旅です。なぜこんなにも無理をして、行かねばならないのでしょうか。それが、支配者であるローマ皇帝の命令だからです。支配者は民から税を取り立てたり、徴兵のために、また、ローマの支配を印象付けるために、たびたびこのような人口調査をしたのです。

前回は、156才の若い元気な乙女でしたから、マリアは走ることもできたし、3,4日の旅路でも何でもありませんでした。しかし今回は、ゆっくり、ゆっくり、旅人の群れからは遅れて、最後尾になったことでしょう。ベツレヘムに着いた時には、もう、どの宿も一杯でした。そもそも今の時代のように、宿屋も多くなかったでしょうから。やっと、体を休めるべく見出したのは家畜小屋でした。ここで「マリアは時が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(:7)のです。いつ生まれても良いように、“おくるみ”にする布は準備していたのでしょう。干草があれば良かったでしょうが、大体は放牧だったでしょうからそれもありませんでした。幸い、飼い葉桶がありました。今の時代から考えるなら、不潔な最悪の環境です。私も、小さい頃腕白で、父に叱られ、手足を動けなくされて、牛の飼い葉を蓄えてある箱に放り込まれたことがありました。それは罰として与えられたものですから、致し方ありません。それでも草の床はふんわりでした。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんにとっては、有ってはならないことです。

でもこれが、神の計画であり、アブラハムの生まれる前からいた(先在のキリスト)と言われたイエス様が、自ら歩まれた地上での第一歩です。全ての人にまさって低くされ、苦しまれたからこそ、わたし達の苦しみ、悲しみをも知ってくださいます。このように、私たちに共感くださるお方、これが救い主であります。このお方が、信ずる者を救い、兄弟姉妹と呼んでくださるのです。

新着情報











Copyright(c)Okamura Church All Rights Reserved.