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礼拝説教要約(201611月6日)

「ただ一つの慰め」      聖書・ヨハネ黙示録7917

 今、故人の名前を読みつつ、一人ひとりを懐かしく思います。中には1回もお会いしていない人、だから、その人となりを全く知らない方も居られます。でもこれらの方々が教会の礎となってくださったことを知っています。それゆえ、神の家族として親しみを感じますし、感謝を覚えます。でも人を思い出すとき、必ずしも麗しい点ばかりではないでしょう。人、誰一人として完全な人はおりませんから。でも今日の聖書の箇所には「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と子羊の前に立って」(:9)とあります。これらの群衆の中に、今、私が名を読み上げた人々は居るのです。

 なぜなら、「白い衣を身につけた大群衆」とは、イエス・キリストの十字架の血潮が、自分の罪を洗い清め、神の前に、真っ白な心にしてくださったとの信仰を得た人々だからです。人はだれでも欠点があり、過ちを犯すものですが、その罪を認識できるか否かが、天国に行くか、地獄に行くかの分かれ道なのです。この世でどんな立派な働きをし、正しく生きようとも、人は神の御前に出るとき、罪、汚れを見出されない者はおりません。「義人はいない。一人もいない」とは真実です。全ての人が罪を犯していると聖書は言っています。しかし何と、自分が罪を犯していると自覚しない人が多いことでしょう。私自身、聖書に出会うまでは自分を罪人だとは思っていませんでした。他の人々と自分を比べ、「自分はあのような人よりは善人だ」と思っていたのです。幸い私の場合は、聖書を読み、比べる対象が周りにいる他の人ではなく、イエス様になったとき、自分の罪を自覚できました。でも残念ながら、未だ日本の大多数の人々は、聖書を読んでも自分の罪を認識できないようです。罪を自覚できないと、自分は救われねばならないとも思わないのです。だから、救いを求めようともしません。その人にとってキリストは、ただ、2000年前、十字架につけられ死んだ人でしかありません。

しかし、十字架は、信じる者にとっては神の力です。救われるただ一つの希望です。キリストの十字架の死を、自分の罪を引き受けて、神の裁きを受けてくださった印と受け取るとき、これは現実となるのです。それがイエス・キリストの約束です。キリストを救い主と信じ、救いの印である洗礼を受けるとき、救いは成就します。でもこのことをイエス様は「狭き門」と言いました。それは、イエス様の十字架の死を、自分の救い、天国への門として見出す人が少ないことを意味しています。

白い衣を着た人々は、手になつめやしの枝を持っています。これは勝利を祝う印です。イスラエル王国が滅んだ後、エルサレムの神殿には偶像が置かれ、汚されました。それをユダ・マカベウスという人物が立ち上がり、抵抗戦争をし、勝利したのです。エルサレム神殿から偶像を除き、神殿を清め、主なる神を礼拝する信仰の自由を取り戻しました。この時、民衆がなつめやしの枝(棕櫚の葉)を持って出迎えたのです。イエス様が十字架の死を覚悟してエルサレムに入場したときにも、「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」(ヨハネ12:13)とあります。これはイエス様を救い主として迎える喜びの表現です。しかし、彼らの考えていた救いは、ローマから自分たちを解放する救い主でした。でも聖書が表している、「イエス様は救い主」というのは、悪魔に勝利して、人間の心を罪から解放し、神のみ旨を生きる天国の国民とすることです。今日の聖書の「白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持」つ人々こそ、神様の願っていた人間本来の姿です。

彼らは今、「命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(:17)とある、天国を体験しているのです。天国の玉座の中央には、私たちのため犠牲の供え物となってくださった“神の子羊”なるイエス様が居られます。(:10) これは天における交わり、礼拝の情景です。

私たちが今ここで礼拝を持っているのは、後の日に、主にお会いし礼拝する、天国の雛形なのです。地上の礼拝だけで終わらないように、死に至るまで忠実であった先達たちに倣い、私たちも、白い衣を天でも着る者でありたいです。そうすれば、先に主のもとに帰られた人々との再会、主キリストにまみえることができます。この希望こそが、永遠に消えることのない私たちの希望です。ハイデルベルク信仰問答の第一の問いが「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、なんですか。」とあるのは意味深いことです。誰でも希望を持って生きているでしょう。しかし、多くの人は、人生の中途で希望を見失ってしまいます。老齢になって、いえ、死を間近に感じても持ち続けられる希望。それこそが、ただ一つの、真の慰めです。この再会の希望は、単に希望で終わることはありません。復活された主・キリストがその保障であり、必ず実現する希望なのです。

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