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礼拝説教要約(2016814日)

」       聖書・申命記619

 私どもの教会は194987日、横浜福音医療宣教団・根岸橋教会として設立されました。本日、創立記念日礼拝のゲストとしておいでいただいた増田篤子先生のお母様・佐伯礼子(旧姓・井ノ口)姉の祈りからスタートしました。

 礼子姉は横浜菊名教会で開かれたバイブルスクールに出席し「自己の救いにのみとどまってはいけない」と示され、職場伝道と子どもへの伝道を祈るようになりました。職場では聖書輪読会を開きました。そして家庭集会に出席した席で「子どもへの伝道を示された」と証しされました。1948年の暮れから家庭を解放して子ども会を開始しました。清水ヶ丘教会(当時はミッション教会)の多くの青年が手伝い、倉持芳雄牧師の応援を頂いた集会には、戦後の娯楽の無い時代、子どもたちが大勢集まりました。家庭に入りきれなくなったため、根岸橋町内会館を借りて、19491月より根岸橋日曜学校が始まったのです。毎週150名ほど集まっていました。でも、町内会側から会館維持費の件で立ち退きを要求されたのです。それを機会に、倉持先生とラング先生が町内会側と話し合い、5年間借用の契約を結んでくださいました。そして、倉持先生の先輩である、梅澤幸太郎牧師を招聘し、横浜福音医療宣教団根岸橋教会の設立となったのでした。

 その後、母教会の横浜福音医療宣教団ミッション教会が日本基督教団に加わり清水ヶ丘教会となったので、当教会も日本基督教団根岸橋教会となりました。借用の5年が過ぎる時、ラング宣教師を通して、EUBのメイヤー宣教師(エバンジェリカル・ユナイテッド・ブレザレン)の経済的助けにより、ここ岡村の地に土地を得、教会堂を建設して、教会名も横浜岡村教会となったのでした。(メイヤー宣教師は現在、清水ヶ丘教会の納骨堂に葬られています)

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え」(6:5~6)は、私たちの教会の始まりにあった心であります。「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(:7)とは、日々、生活をもって主を証しすることでありましょう。

8月は又、終戦記念の月であり、平和を祈る月でもあります。私たちの教会が設立された1949年「私は日本の捕虜でありました」という小冊子を読んで、大きく人生の変えられた人がいました。淵田美津雄氏であります。彼は日本海軍中佐で日米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃の総指揮官でした。そして先の小冊子を書いたのはアメリカ合衆国陸軍航空隊伍長であったジェイコブ・ディシェイザー氏です。彼は日本本土初空襲を行なったドゥーリトル爆撃隊の爆撃手で名古屋に爆弾を投下した本人です。爆弾投下後中国に逃れ、落下傘降下して日本軍の捕虜となった。彼は収容所で聖書を差し入れてもらい、子どものころ聞いたキリスト教の信仰を回復した。そして日本人への憎しみは慈愛に変えられ「戦争が終わったら、日本に宣教師として遣わしてください。」と祈り、日本へ宣教師として来て、「私は日本の捕虜でありました」という回心の証しを配布していたのでした。

 一方、淵田氏は、連合国による東京裁判への反発から、米国の日本軍捕虜への悲惨な処遇を調べているうちに、逆に、米国女性マーガレット・コヴェルの献身的な働きを知りました。彼女の両親は宣教師として日本に来て、関東学院のチャプレンをしていたが、勧告により日本を離れました。でもルソン島で日本兵に捕らえられ斬首されたのです。両親が篤い祈りを捧げながら殺されていったという話を聞いた娘のマーガレットは「両親の意志は、日本人を憎むことではなく、愛すること」と考え、捕虜収容所で日本人に愛をもって奉仕していたのでした。このことを知った淵田氏は思いました。殺されつつ祈っていたコヴェル夫妻が捧げていた祈りは、どんな祈りだったのだろう。両親を殺した日本人を、愛をもってなぜ世話できるのだろう、と知りたくなったのです。そして淵田氏は聖書を読むようになり、十字架上で祈られたイエス様の祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)に出会ったのでした。また、心から神を愛し、心を尽くして敵をも愛する愛に出会い、心が目覚めたのです。「自分も罪人で、赦されなければならない一人だ!」と。そして淵田氏はクリスチャンとなっただけでなく、伝道者になったのでした。

 私たちも、教会創立の初心を心に留め、心を尽くして、主の愛を生き、主を証ししてまいりましょう。

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