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     礼拝説教要約(2016110日)

「心に備えは出来ているか」  聖書・ルカ福音書3122

 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(:7)と厳しいメッセージを、バプテスマのヨハネと言われた、旧約最後の預言者は語りました。その彼のもとに、イスラエルの人々は続々と集まってきました。それは、イスラエルの民が、「差し迫った神の怒り」を強く感じていたからでしょう。では今、私たち日本に住む者はどれだけ感じているでしょうか。

 確かに現代は、世界の多くの人が危機を感じています。しかし残念ながらそれは、神の怒りから来る裁きに対する危機感ではないようです。食料の危機。日本に住む私たちにはさほど深刻ではないように思えますが、統計的には世界の9人に一人が飢餓状態だそうです。エネルギー危機。言われるようになって久しいです。地球温暖化の危機。それに伴う海面上昇と経済主要地の水没。ある太平洋の島国は島自身が水没すると危機を感じています。汚染の危機。もっとこの世的には、争いの危機。そのため日本でも、軍備を整えようとしています。これらはあがけばあがく程、もっと悪化し、神の怒りを招く状況を作り出しています。つまり、危機感はあっても、神の怒りには無頓着ということであります。

 これは、真の神を知っていないからです。そして結局は自分の罪をも知らないからです。それとは対照的に、天地の造り主なる神を知っているイスラエルの民は、罪を自覚し、神の怒りを恐れていました。でも「我々の父はアブラハムだ」(:8)自分たちは神に選ばれた民との誇りがありました。これがいつしか驕りにもなっていたのです。しかしヨハネは言います「神は石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(:8)と。今のままの生き方であれば、選民でさえも神の裁きに耐え得ないのです。まして、真の神を知らず、神を自分の都合よく作り、利用している偶像崇拝の異邦人。罪さえ自覚せず生活している私たちに対する神の裁きは必至です。そして、その裁きは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(:9)と、間近に迫っているのです。

 群衆の中から「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねる者が続出しました。ヨハネは言います。「下着を2枚持っている者は、1枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(:11)。「規定以上のものは取り立てるな」(:13)。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(:14)と。これは律法を守る、あたり前のことです。しかし、人間はそれが出来ないのです。“私は行なっている”と言われますでしょうか。それは傲慢です。イエス様のように、敵をも愛する愛がないなら、律法を完全に守ることは出来ないのです。

 ヨハネは人々に罪を気付かせ、「自分には救いが必要だ」と救い主を受け入れる心備えをさせるために来たのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ…人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(:46)と、荒れ野で叫ぶ者の声としての使命であります。彼はこの自覚を持っていたので「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(:16)と、どこまでも謙遜になれました。そのようなヨハネの下に、続々と人々は集まり、悔い改め、洗礼を受けました。このようにして、ヨハネは人々に、救い主を受け入れる心備えを与えました。

 そこにイエス様も来られて、洗礼を受けられました。これはまことに不思議なことです。救い主として来られた、罪のない神の子が、悔い改めの洗礼を受けるのですから。だからヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と言いました。しかし、これは正しいこと、ふさわしいことなのです。なぜなら、私たちは洗礼を受けることで、罪を取り除いていただきます。しかしそれは、罪のないイエス様が、洗礼を受けることにより人間の罪を背負ってくださったからです。

 私たちはこの方の前に「私たちはどうすればよいのですか」と言わねばなりません。イエス様は言われます。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)、「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)と。

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