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 礼拝説教要約(2015816日)

「永遠の命が得られる」  聖書・ルカ福音書102537

 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25)と尋ねられた人がいますか? 私に、このように聞きに来た人はいません。「私に」と言うより、日本人でこのような質問をする人はいないのではないでしょうか? だから、今日の説教題「永遠の命が得られる」を張り出しても、周囲の人は興味を示さないのではないか、とも思い、迷いました。

 「永遠の命」とは、最高、最善の幸いであることをイスラエルの民は知っているのです。最高、最善の幸いを、現在の日本は“経済的豊かさ”と受け止めているようですね。だから国政選挙でも、そのような経済第一の政策を掲げた政党を選んでいます。

また、福島原発の事故の時は、原発の存廃を真剣に考えたと思います。世界的にもあのことを契機に、原発完全廃止を決定した国もあります。しかし当事国・日本があの事故を忘れたかのように、原発を稼動させました。その後1年半、日本の全原発は停止していました。それでも、私の知る限りでは、節電する努力で、さして不都合は無かったように思います。なのに、私の故郷に近い鹿児島の川内原発は、経済優先策で、責任体制もはっきりしない中で稼動し始めたのです。原発は平和産業のように言われていますが、原発により原爆材料が作り出されているのです。またこれにより、人類が存在する間、消えることは無いであろう放射能物質を生み出しているのです。日本は火山国ですし、地熱と太陽エネルギーは無限にあります。真にクリーンなこれらを用いる技術も世界最高レベルです。なぜ原発にこだわるのか理解できません。でも今日はこのテーマではなく、永遠の命について考えましょう。

聖書の民は最善、最高の幸いを「永遠の命を頂くこと」と考えていました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ173)とあります。聖書の「知る」とは、体験的に知ることです。「御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命…あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ123)とあります。神との交わりを失い滅びへの道を進むようになった人間が、永遠なる神との交わりを回復することが、真の幸いへの道なのです。全知全能なる神が共に居て愛してくださる。であれば、私たちの生きるに必要な物は、すべて添えて与えて下さる。その神との交わりを回復すると、神の与えてくださった才能も、最高に発揮されます。そしてその状態こそ活き活きと、生甲斐のある人の歩みであります。そこでは、教会のテーマソングのように、互いに許し合い、互いに愛し合い、喜びに満ちた生活が生まれるでしょう。これ以上の幸いがあるでしょうか。

律法の専門家の「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25)の質問に、イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26)と問い返されました。律法(聖書)に書いてあることなら、律法学者は良く知っている。しかし大事なのは、それをどう読むか。つまり、どう理解しているかであります。学者の知識は正しかった。しかし、それを実行出来るか否かが大事なのです。あなたはできますか?私は自分が出来ないことを知っています。律法学者も確答できませんでした。だから、自分を正当化しようとしたのです。「他の人がやっている程度にはやっている。いやそれ以上に!」との思いもあったでしょう。

誰が隣人か?「親、子、兄弟姉妹、隣家の人、今あなたの席の横に座っている人」それだったら、愛せますし、愛していることでしょう。でもイエス様が言われたのは、反目し合っている敵を愛せるか?なのです。ユダヤ人はサマリア人を汚れた民と軽蔑していました。それ故、彼らの神殿を壊したこともありました。サマリア人はエルサレムの神殿に人骨をばら撒き、神殿を汚したことがありました。だから、このように敵視し合っているサマリア人がユダヤ人を助けることは「敵を愛する」ことであります。だから、私にはできないと言ったのです。「自分は出来ない」ということを知ることが大事なのです。でも、その愛を生き、死なれたお方がいます。それがイエス様です。イエス様が、愛のない私の隣人になって、交わってくださったのです。そして、このお方を心に受け入れることが、永遠の命を得ることなのです。

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