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     礼拝説教要約(2015628日)

「神の慈愛と峻厳」      聖書・創世記19129

 「神は愛なり」キリスト者なら誰でも知っている聖句です。また、「愛」はキリスト者にとって唯一の律法です。キリスト者の優しさは「あなたの隣人を愛しなさい」と言われたお方に近づきたい、似た者になりたいと願う思いの現われです。でも、日本では、優しさは弱さと勘違いされたりもしています。しかし、キリスト者の一本芯の通った強さは歴史が示しています。そしてそれは時として、「頑固さ・厳しさ」とも見られがちです。今日の聖書の箇所は、この愛について、厳しさについて語っています。

 アブラハムの見送りを受け、アブラハムの熱心な執り成しの祈りを心に留めつつ、二人の御使いはソドムに来ました。「ロトはソドムの門の所に座って」(1)いました。門は裁判の場、社交の場でもあります。かつて、ソドムの王はロトのおかげで、アブラハムに助けてもらったことがあります(14章)。それ故に、ロトはソドムで何らかの地位を持つ有名人になっていたのでありましょう。ロトはソドムで交わりを深め、娘たちをもソドム人に嫁がせ、ソドムに慣れ親しんでいました。でも未だ、アブラハムと同じように、旅人をもてなす親切な心は持っていました。ソドムが旅人をなぶりものにする悪癖があることも、旅人を広場で寝泊りさせたくない理由だったでしょう。ロトの熱心な勧めで、二人の御使いはロトの客となりました。案の定、ソドムの男たちが大挙して来て「今夜、お前のところに来た連中はどこにいる。ここに連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(5)とわめきたてました。ロトは「実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(8)と、現代の私たちには理解し難い行為ではありますが、わが身を犠牲にしても、自分が受け入れた者を守ろうとするロトの誠実さを見ることができます。

 ロトの窮地を見て二人の旅人は、主の御使いの力を発揮し、押しかけて来た者たちの目をくらませました。「目つぶし」は忍者なら、卵の殻に、刺激的な粉山椒、唐辛子、生姜の粉末、酢や煙硝等を入れたものを投げつけ、目を開けられなくするのでしょうが、主の御使いの目つぶしは、光を用いるのでしょう。太陽の光を直接見ると、目がくらんで何も見えなくなります。列王記下618節以下にも、アラム軍との戦いで、エリシャが主に祈って、敵の目をくらませたことが記されています。

 旅人はロトに、自分たちが罪に満ちたこの町を滅ぼすために遣わされた御使いであることを明かしました。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。…主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」(1213) ロトは婿たちに、この町が主によって滅ぼされるから、自分たちと共に逃げることを促しましたが、婿たちは冗談としか受け取りませんでした。ノアの時代に、ノアの家族以外は、世界が罪のゆえに主によって滅ぼされるということを信じないで、真剣に受け止めようとしなかったのと同じです。そのような婿たちの態度に、ロトも惑わされ、豊かなソドムから出てゆく決断が出来ませんでした。このことからも、ロトと一族の救いのチャンスは、ロトの正しさゆえでないことが分かります。先週の執り成しの祈りの大事さです。「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(29)

 ぐずぐずしているロトを「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。」(16)「低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びる」(17)と言われても、「主よ、できません。…あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。」(18,20) この状況になっても、豊かさ、文明を追い求め、慕っています。私たちはどうでしょう。今の豊かさ、便利さから後戻りする勇気がありますか?やはり難しいのでは! 日本の豊かさを、全世界の人が同じく受けようとするならば、地球が3つ必要。アメリカの豊かさなら、地球が5つ必要との統計計算があるそうです。そのように人間は地球からむさぼり取り、奪い合い争うのです。神の法則を無視して、搾取しているから、環境汚染、放射能という自然ではありえない汚染物質を作り出しているのです。

 主の裁きの火が降り、ソドムとゴモラ、低地一体は全住民、地の草木もろとも滅びました。(25) ロトの妻が後を振り返ったのは、置いてきた財産や、今までの豊かな生活への未練からでしょう。その瞬間、彼女は塩の柱となり滅びました。神は忍耐強く待ち、どうかして救おうとする御慈愛深い方です。しかし、罪は決してそのまま見過ごされず、裁かれる厳しい方でもあります。

「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ1122

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