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    拝説教要約(2015621日)

「熱心な執り成しの祈り」   聖書・創世記181633

 キリスト教の特徴的な祈りの一つが「執り成しの祈り」であります。そして今日の聖書箇所は、執り成しの祈りの代表的なところです。

 アブラム(大いなる国民)が、主により更なる祝福と使命を持つ者としてアブラハム(諸国民の父)と改名された年、3人の旅人がアブラハムのもとに来ました。99歳のアブラハムに来年、サラ(89)との間に男子が生まれることを告げました。サラがそんなことが起こるはずはないと、ひそかに笑うような御告げです。でもこれは神の約束が、ついに実現する喜びの知らせです。信仰を持って歩み続けたアブラハムへの祝福です。しかし、この世的な豊かさを追い求めたロトにとっては、試練を伝えるためでした。

 アブラハムに祝福を告げた後、この旅人(主と御使い)はソドムを見下ろす所へ来ました。アブラハムも見送りのために来ました。主はソドムとロトに起こることを、アブラハムに告げることもなく、ひそかに行うことを良しとしませんでした。なぜなら、神はアブラハムを「わたしの愛する友アブラハム」(イザヤ418)と呼んでいます。また「わたしたちの神よ、あなたは…この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになった」(歴代誌下207)とヨシャファトは祈っています。このようなことから、後の人々はアブラハムを「神の友」と呼ぶようになっているのです。「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ223)「友」と呼ばれる関係が、どんなに愛と信頼に満ちたものであるかを知ったとき、私も喜びと感謝に満たされました。なぜなら私たちが最もよく歌う讃美に「いつくしみ深き友なるイエスは」というのがあります。イエス様は「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ1515)とあるように、神の子・イエス様は私たちを愛と信頼で満ちた友と見ていてくださるのです。これ以上の嬉しいことがあるでしょうか。

さて、アブラハムを友と見てくださる主は、アブラハムにソドムの滅亡を語りました。でも、主は憐れみ深く、忍耐深いお方ですから、ただソドムの罪状の訴えだけで判断しようとはしていません。いま、直接、確認するためにソドムに行くのだと言うのです。これを聞いたアブラハムは、主に訴えました。「あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか」(24)と。アブラハムは主の公正と慈愛を信じていました。主の正義とは、単に悪い者を裁く義ではなく、正しい者を守り生かしてゆく義であることを。その通りに主は「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26)と言われました。でも、正しい者が50人いないかもしれないと思ったアブラハムは、自分が恐れ多くも栄光の主にこのように願う資格等ない、塵あくたにもすぎない(27)ことを知りつつも、更に、45人いたら、40人いたらと、可能性を求めて食い下がります。「40人のためにわたしはそれをしない」(29)と主は言われます。それでも不安なアブラハムは、自分が怒られることを覚悟で、謙遜に、しかし大胆に、10人になるまで6回も粘り強くお願いしました。

6回も同じ品物を値引きするよう交渉する人はいないでしょう。私など、一回お願いできればましな方です。私の義兄は中国に良く行きますが、中国では値切られることを予測した上で値段がついている。だから値切らない方がおかしいのだと教えてくれました。値切るのが当たり前の中国の人たちは、今、日本に来て爆買いしているとニュースされていますが、デパートでさえも値切るそうですね。シャイな日本人はなかなか値切ることが出来ません。

 アブラハムだって、自分の利益のためだったら、これほど粘れなかったのではないでしょうか。他者のため、愛する者のためだからこそ、神に食い下がって祈ることができたのでしょう。

 「くどくどと祈るな」と言われたイエス様が、ゲッセマネでは三度同じ言葉で祈った末、全てを委ねられました。それに対し父なる神は一歩も譲歩しませんでした。しかしイエス様は、人間の救いのためには一歩も退かず、命を懸けて執り成してくださったのです。私たちも愛する者のために祈りましょう。そのように祈れる心の友を持っている人は幸いです。

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