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   礼拝説教要約(2015年3月29日)

「先にたって進むイエス様」 聖書・ルカ福音者192844

 今年の受難週は、皆さんと共にルカによる福音書を読み、主の御受難を偲ぼうと示されました。それで棕梠の主日である今日は、エルサレム入場であるこの箇所を、ルカ福音書から読んだわけですが、「先立って進む」という御言葉が心に留まりました。今年の標語聖句が「自ら進んで」という、同じ積極的な姿勢だからでありましょう。

 人は嬉しい時には、自然に行動的になり、先頭に立つこともあるでしょう。イエス様一行のいつもは、一番の年長者で、1番弟子と自認する、行動派のペトロが先頭だったのではないでしょうか。イエス様は皆に囲まれ守られるかのように、又、誰からも等間隔の中心に居られたと思われます。それが、今年の過ぎ越しの祭りでは、先頭に立って進まれたのです。弟子たちには不思議に思えました。なぜなら、弟子たちの本心は、エルサレムにはあまり行きたくなかったからです。都では特に迫害が激しくなり、命の危険をも感じるようになっていたのでしょう。だから「イエス様が先頭に立って進むなんて、嬉しい、何か良いことがあるのだろうか?」と思いました。もしかすると、イエス様がついに王になられる日が来たのか!とも感じたようです。

 弟子たちの予想通り、人々はイエス様が来ると「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。」(36)のです。ヨハネは「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」(ヨハネ1213)と記しています。これはBC165年にユダ・マカベウスが、セレウコス朝シリアの王アンテオコス・エピファネスに勝利して、偶像礼拝を強要する異教徒の圧制からイスラエルを開放し、宮を潔めた故事に倣うものでした。群衆はついに、約束の救いの王が来られたと思い、ユダ・マカベウスを迎えた時のように、自分の服を道に敷き、棕梠の枝を振って「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(38)と神を讃美したのです。

 しかし、イエス様はエルサレムが近づき、都が見えたとき「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…しかし今は、それがお前には見えない。」(42)と言われて泣かれました。これは43節以降に書かれている、ローマによってイスラエルが完全に滅ばされたAD70年の出来事を予見しての涙です。

 武力をもって立とうとする者は、武力によって滅びるのです。日本も武力で立ち、「八紘一宇」の精神のもとアジアの盟主たらんとしました。しかし、その大日本帝国は滅びました。そして次に、経済最優先で上に立とうとしています。その上、国力が上がって来たとの慢心からでしょか、平和憲法である第9条を変えて戦争のできる国になろうとしています。そしてついに自衛隊を「わが軍」つまり軍隊として表現し始めました。危ういです。

 イエス様がエルサレムに入場されたのは、王になるためでも、自分の喜びを追求するためでもありませんでした。自分の使命を果たすためだったのです。公生涯に立たれる時「神の子羊」と呼ばれたその使命。神の前に罪を贖う犠牲の子羊として、御自分を献げられるのです。人を愛するがゆえに、自分の命を懸けて、人間を滅びから救うために、自ら進んで、先頭に立ち進まれたのです。

 「イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ131) それが神の前に捧げられる犠牲の子羊の使命でした。イエス様は十字架にかかり、人々を救い、神との間に平和を作り出しました。この心の平和が、真の平和をもたらすのです。そのためにイエス様は先頭に立って入場されたのです。

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