行事案内

 礼拝説教要約(2015315日)

「神の約束による希望」   聖書・ヘブライ書6:13〜20

 「信仰生活は自転車に乗っているようなものである」と言われた人がおります。前進している間は倒れない。しかし、止まってしまうと倒れてしまう。この世の希望は、必ず果たせるとは限らない。果たし得ずして失望し、落ち込むこともあります。希望がかなってしまうと嬉しくはあるが、新たな目標を定めないと、倦怠に陥り、倒れてしまう。しかし、キリスト者の望みは、地上にある間、切れることなく続いて行きます。前回も申しましたように、キリスト者の希望は、キリストに似た者に成ることだからです。

 でも本日の19節には「わたしたちが持っている希望が、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり」とあります。“錨って船が止まった時、必要なものじゃないの、止まって錨を下ろしたら駄目じゃないですか”と言われそうです。しかしこれは、信仰ではなく、希望について語っているのです。キリスト者の希望は、錨で繋ぎ固定された、確かなものであります。人生の嵐で流され、難破しないための錨のようなものだというのです。

 私たちは、移ろい易い、希望を持っていても、結局は消えて行くようなこの世に住んでいます。そこを脱出して、変わることも、消えることもない希望を目指した。これがキリスト者です。そしてそれは「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。」(18)とあります。この「二つの不変のこと」とは、神の「約束」と「誓い」です。この実例が信仰の父と言われたアブラハムへの、神がなされた約束です。神の約束ですから1つで十分なのですが、時間の経過の中で、希望を失わないようにと誓いをもって保証までされたのです。

 アブラハムをメソポタミアという滅び行くこの世から、神は導き出しました。行く先のわからぬままですから、普通であれば希望もなく、不安な状況でありました。しかし神は「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し…祝福の源となる…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記1223)と約束なさったのです。アブラハム75歳での旅立ちでした。

 アブラハムがカナンの地に入った時、神は「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記127)と言われました。約束の地は与えられても、アブラハムには跡継ぎの子がいなかったのです。「あなたの子孫を地のちりのように多くします。…天を仰いで、星を…数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記1316155)。と言われた時、彼には子どもがいませんでした。しかし彼は神の言葉を、信仰を持って受けとめたのです。約束から25年経ち、100歳の時、イサクが生まれました。更に60年経ち、二人の孫・エサウとヤコブが与えられました。アブラハムの生涯は175年でした。人の目には、神のアブラハムへの約束・誓いは、望み薄に思える状況であるにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じ続け、希望の火を消すことはありませんでした。

 アブラハムは時間との闘いがありました。80歳、90歳になっても、全く先が見えません。100歳でやっと1人の子孫。150歳になっても何も変わらない。160歳で2人の子孫が加えられても、空の星の数には程遠い状態です。しかし、神の約束は600年経って確かに実現しました。アブラハムの子らはイスラエル民族として、エジプトを脱出し、カナンの約束の地に帰ってきたのです。神は偽ることのないお方です。私たちの希望は、私たちが持っているのではなく、この神の約束により保証されているのです。

 この手紙を読むヘブライ人は同族からの迫害に加え、当時の世界の覇者・ローマによる迫害の中にありました。だから、神の約束の言葉による希望を持ちなさいと励ましているのです。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633)と言われた救い主イエス・キリストが私たちの希望の錨です。

 この方は又、至聖所に私たちを入れるべく、神とのへだての垂れ幕を除いてくださり、先駆けとして入って行かれたのです。私たちの最高にして最大の拠り所は、イエス様が大祭司として、至聖所に居られ、今も執り成しの祈りを捧げてくださっているということです。そして、私たちが望めば、わたしたちもそこに入って行くことが出来るのです。この希望は主キリストが、十字架で約束くださった、確実なものです。

新着情報











Copyright(c)Okamura Church All Rights Reserved.