行事案内

  礼拝説教要約(2015年3月1日)

「最後まで希望を!」    聖書・ヘブライ書6:9〜12

 前回は、神の言葉を忠実に、そのまま聞くことをしないで、自分サイドの物差しで、自分に都合の良い解釈をしているなら、心に茨やアザミが生えることを述べました。その結末は、呪われた滅びであります。そればかりか、喜び、感謝もなく、まして讃美することもない殺伐とした生活となり、そこには実が稔らないと、厳しい語調で記されていました。

しかし、本日の9節から、突然「愛する者たち」と優しい表現になっています。信仰をもって生きる人々は、本日の交読文・詩編23篇のように「わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。…死の影の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。…わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。…命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」のように、主の守りのなかで希望を持って生きることができます。それだけでなく、あなたたちの生き方が、他の人にも生きる喜び、感動を与え、潤いを与える存在になれるのです。だから、激しい迫害の中にあった初代教会の人々に「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人」(:12)になりなさいと勧めているのです。

現代、私たちの周りでも、なかなか福音宣教の結果が出ません。一生懸命やっているのに、何故!と結果論的に見がちです。そして、愛をもって仕えても通じない。祈っても状況は変わらない。「あゝ、だめだなー」と心が折れそうになります。今の日本は物質的には豊かになり、福祉政策も進んで、生きることが困難という状況ではなくなりました。だから祈らないでも生きられる。現代は、神無しで生きることが、痛くも痒くもないない、それが当たり前の時代になっています。かえって、神に祈りながら生きる方が、弱い人とけなされるような時代です。だから、宣教の業も、罪が赦され、永遠の命が与えられたというような、目に見えない霊魂の救いを語っても、なかなか結果が伴い難いのでしょう。信仰でも「病気が癒されるよ!問題が解決するよ!」という即効性のある、奇跡を求める傾向が強くなっています。

でも、「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」(:10)と、あなたの小さな、結果の出ないように見える働きも、主は覚えておられると言われます。

今日、自治会による岡村梅林の梅祭りがあります。教会の有志で、メロディーを誰でも知っている讃美歌と「春の小川」「故郷」「箱根八里」や「赤い靴」等、小学唱歌、童謡を讃美してくることを予定しています。周りの地域の人々との交流を大事にしたいからです。でもそれだけでなく、明治初期にこれらを作った人々(高野辰之、岡野貞一、野口雨情、滝廉太郎)が皆、クリスチャンであったことを伝え、日本人の心の中にキリスト教の心が入っていることを知らせるためでもあります。そうすることによって、天に召されたこれらの聖徒たちが、今も働いて、主の栄光を表わしていることがわかります。私たちがそれを受け継ぎ、更に伝え続けるのは、私たちが今できる証でもあります。

「あれでもクリスチャン」と御名が汚されるのではなく、「やっぱり、あの人はクリスチャン」といわれる者でありたい。その時、花を咲かせることが、この世的にはできなくても、主は見ていて下さいます。あなたの働き、どんな小さな働きも主はお忘れになりません。聖なる人の働きを、下から支え、その仕えている姿が人には見えなくても、主は見ておられます。主の御名によって行われる愛の行為を、主がお忘れになることはないのです。失望しないで、駄目だと思わないで、「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続ける」(:11)ことを強く勧めています。変わらぬ熱心さをもって!そうすれば私たちも、約束されたもの(永遠の命と、天国での冠)を受け継ぐ人々と、同じ列に加わっている者となれるのです。

新着情報











Copyright(c)Okamura Church All Rights Reserved.