礼拝説教要約(2015年2月1日)
「心の耳を澄ませ」 聖書・ヘブライ書5:11〜14
本書の主テーマである「大祭司」について語っている途中で、著者の話が急転回します。「このこと(大祭司)については、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」(:11)大事な話をしているのに、私の見るところ、あなたがたの耳が鈍くなっている、そのためどんなに話しても正しく受け止めてもらえそうもない。だから中断し、あなた方に警告すると言っているのです。
今、著者は聴衆に話しているのではなく、手紙を書いているのですから、「耳が鈍くなっている」という耳は、心の耳をさしています。「耳が鈍い」とは、1、自分の考えは絶対正しいとする傲慢な心です。また「お前の意見など、聞く耳持たぬ!と、他人の意見を聞こうとせず、心を頑なにしている姿です。2、このような人は、自分の尺度があるため、他人の意見を聞いたとしても、自分に都合よく捻じ曲げて受け取ってしまうのです。未だ、キリストと共に古い自分を十字架につけていない。つまり、古い自分が死んでいないのです。だから、聖書を読んでも、自分に都合の良い所だけを受け入れ、都合悪い所は無視してしまうのです。これでは聖書を神の言葉として受け入れていないということになります。聖書を教養として読み、十字架をアクセサリーとして身につけているのと同じです。都合悪くなれば捨ててしまうのです。そのような信仰は幼稚な、幼子の信仰だと言っているのです。
「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。」(:12) 信仰を持って何年も経っているのだから、他者に教え伝えて行く位成長していることを期待されています。しかし、いつまで経っても、自分が恵まれることを求めているのであって、真のキリスト者へと成長していないことに、気付いてさえいないと、著者は嘆いています。それは自我を通す精神的子どもの姿です。日本でも大学入試まで親が付いて行くことや、結婚しても親の意見にのみ従う夫に我慢ならず離婚に発展したとニュースされます。これが親離れしていない大人子どもです。「神の言葉の初歩」とは6章に記されている洗礼や復活という信仰の初歩の恵みです。これはありがたい、キリスト信仰の一番大事な土台ではあります。しかし、「神はあなたを愛している。愛して御子をお送りくださった。御子はあなたを救うために、身代わりに神の裁きを受けて死んでくださった。あなたはもう救われている。復活なさった主キリストがそれを保障してくださっている。」といった初歩に留まっているだけでよいのでしょうか。それは成長せず、乳しか飲めない赤ちゃんと同じなのです。
聖書は「受けるよりは与える方が幸い」(使徒言行録20:35)とか「愛されるよりも、愛することを」(聖フランシスコの平和の祈り)に表わされているように、恵みを受けるだけの者ではなく、神の御旨を行う者へと成長して欲しいと、神は願っておられるのです。そしてその方が遥かに幸いであると言っています。幼子のまま留まり続ける信仰は、本当の意味では、キリスト信仰ではありません。もし、神の恵みを頂くことにのみ関心がある信仰なら、偶像信仰となんら変わりがありません。
また、そのような赤ん坊の状態なら、「神の義」など理解できないでしょう。「そのような状態で良いのか?」とチャレンジしています。ではどうすればよいのでしょう。鈍い耳を澄んだ耳に変えなければなりません。「霊の耳が鈍くなっている」をルターは「あなたがたは無気力である。注意深く熱心であり続けることが出来ない。注意深く熱心に神の言葉を聞こうとしないで、自分サイドの物差しで測って、自分の都合の良いものだけを受け取っている。」と訳しています。
今こそ、心の耳を澄まし、神の言葉をそのまま聞き、受け入れ、行う者にならなければなりません。イエス様は大事なことを語る時「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。詩編40:7には「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」とあります。神が求めているのは、私たちの犠牲や供え物ではありません。神の言葉を素直に受け入れる澄んだ耳です。心の耳を澄ませば、細き神の御声も聞けるのです。
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