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 礼拝説教要約(2014105日)

「主の体をわきまえて」   聖書・Tコリント11:27〜34

 今日は世界聖餐日です。聖餐式を行いますが、聖餐のパンを食べ、杯を飲むことが何を意味しているか、おわかりでしょうか。

 27節に「主のパン」とあり、すぐに「主の体」と言い換えています。「主」とはもちろん、イエス様のことであります。ヨハネはイエス様が「わたしが命のパンである」(ヨハネ635)また「わたしは天から降って来たパンである」(41)と言われたことを書き留めています。「天からのパン」とユダヤ人たちが聞くと、出エジプトの時の出来事を思い出したことでしょう。イスラエルの民は40年間荒野を彷徨している間、天からマナを日毎に与えられ養われました。しかし、この天からのマナを食べた先祖たちは死んでしまいました。このマナは肉体を生かすためのパンだったからです。しかしイエス様はご自分のことを「これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ65051)と、人を永遠に、神の子(神と交わりをもてる本来の人間の姿)として生かすために来たパンだと言われたのです。

 同じく27節に「その()杯」とあり、「血」と言い換えています。そして25節には「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」と言っています。これは最後の晩餐の場で「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ262728)と言われたイエス様の約束であります。人は血を多く流せば死にます。ですから、イスラエル人は血こそ命と考えていました。「罪の支払う報酬は死である」とイスラエル人は考えていましたから、イエス様は、人の罪のために、命をもって償うと言っておられるのです。

 出エジプトの時、律法を守ることを条件に、神の民(神と交わりをもてる神の子たち)となる契約を立てました。しかし、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ320)と有ります。神がだましたのでも、律法が悪いのでもないのです。神の約束は真実ですし、律法は正しいのですが、人がそれを完全に守りきることができないのです。だから、律法を誠実に守ろうとすれば、「自分は律法を守れない罪人だ」と自覚するのです。でもこの罪の自覚こそ大事なことなのです。自分の罪を自覚しない者は、救いを求めません。しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ32324)とあるとおり、キリストの十字架の死を罪の贖いと信じ、イエス・キリストを心に受け入れることによって、人は救われるのです。

 このように、イエスというパンを食べ、杯を飲むことを理解することなく、聖餐を受けることが「ふさわしくないままで」と言われていることであり、罪を犯すことになります。また「主の体をわきまえずに飲み食いする者は、…裁きを飲み食いしているのです。」(29)という言葉を、厳かに聞かねばなりません。

 誰でも、聖餐を受ける前に、「命のパンである」と言われるイエス様を心に受け入れること、イエスキリストの死という出来事が、私を義としてくださる、新しい契約なのだと信じることが必要なのです。もしそうでなければ、聖餐という恵みのこの出来事が、かえって、その人にとって罪を犯すことになり、神の裁きを招くことになるのです。

 このように、はっきりと書いてあるのに、イエス様を未だ心に受け入れない人にも、聖餐を許し、罪を犯させている教会、牧師がいることは、真に残念です。イエスを主であると告白していない人に、聖餐を今は、控えるようにと言うことは、決して差別しているのではありません。イエス様を心に受け入れることなく、聖餐を受けるなら、罪を犯すことになるだけでなく、洗礼を受ける必要を感じなくなってしまいます。ですから、1日も早く「主の体をわきまえて」共に聖餐にあずかる日が来ますようにと、祈っているのです。

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