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  礼拝説教要約(2014年9月21日)

「人の子とは 何者なのか」  聖書・ヘブライ書2:5〜9

 あなたは自分自身を何者だとお考えですか。日本人の考えの中には「人間は万物の霊長」との思いがあります。万物の中で、最も優れた存在ということです。確かに聖書の考え方も、神様が、人間を被造物の中で最高のものとして造られたことが記されています。しかし、人間が万物の霊長ということを「人間は万物の尺度である」と表現した人もいます。「人間の知覚こそが真理の基準であり、絶対真理は存在しない。」というのです。そうなると、聖書の考え方とは違ってきます。

 今、祈祷会で士師記を学んでいます。今週で終わりになりますが、この士師記の最後5章は、この時代がイスラエルにとってどんなに信仰的にも道徳的にも退廃していたかが記されています。その象徴的な言葉が「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記1762125の他、何回も繰り返されている)であります。

この王とは、後に出てくる軍事のための王ではありません。イスラエルにとっては本来、神が唯一の統治者(王)であります。しかしそれを認めようとせず、それぞれ自分の考えを正しいとしていたのです。それは自分の知恵に頼って、神から離れ、滅びへと歩んだアダムとエバ・人間の罪の道です。ですから、この頃のイスラエルは、神の火によって滅ばされたソドム・ゴモラと同じような、霊的には最悪の時代でした。神を心の王座におかず、自分の考えが最善との思いで生きるなら、それは滅びへの世界です。

 では、私たちの国では、かつて、天皇という王がいた。今は首相がいるから、良い国でしょうか。確かに日本は道徳に優れ、秩序のある最も安全な国であると、世界の中では評価されています。しかし、それは相対的な評価であって、人間中心のこの世界が、滅びへと向かっていることは、大方の人が感じています。でも「赤信号、皆で渡れば、怖くない」で、皆も渡っているのだから良いじゃないか。私たちはそれでも、未だましな方だからと思っているのではないでしょうか。それでほんとに良いのでしょうか?

 ヘブライ人は、唯一の神を信じていましたが、1章で見たとおり、神と人との仲介者として天使を置いていました。日本の宗教感覚から言いますなら、この天使とは諸霊です。自分の願いを聞いてもらうため、種々の生き物、山川草木の自然、奇岩や人間の作った像さえも、神として祭り上げています。しかしそのような天使や偶像により頼む、人間中心の旧約時代は過ぎたのだと、今日の聖書の箇所には記してあるのです。

 「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」この6〜8節は、詩編8:5〜7の引用です。でも、少し異なる訳し方をしています。「神に僅かに劣るものとして人を造り」(詩編8:6)の部分です。本来この詩篇は、神が人を被造物の中で最高の存在として造られた。そのような神のご慈愛を讃美している詩です。事実あなたは神にとって、かけがえのない存在であることを、しっかり心に留めて欲しいです。

 しかし、ヘブライ人の著者は、70人の人がギリシャ語に訳した旧約聖書の聖句「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」を引用しました。このことは間違った訳というのではなく、詩編8篇を「キリスト預言の詩」と解釈しなおしたのです。だから、ここで「人の子」とはイエス・キリストを指しています。

 フィリピ2章には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(68)とあります。これは初代クリスチャンたちの信仰告白です。イエス様は天使よりも低い者とされ、更に、十字架の死にまで低くされました。しかし、それは、僅かの間だと言うのです。神という栄光と誉れを自分から捨て、人間の罪を背負い、罪人として死んでくださったからこそ、「栄光と栄誉の冠を授けられた」(9)のです。私たちと同じ人間として、いやそれ以上の苦しみ、悲しみを味わったからこそ、イエス様は、私たちを理解し、癒し、慰めてくださる救い主となられたのです。

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