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    礼拝説教要約(2014年7月6日)

「必要を満たす神」      聖書・フィリピ4:1520

フィリピの人々はパウロから受けた恵みを忘れず、いつも背後から祈っていたことが分かります。それだけでなく、贈り物をしてパウロの宣教活動を助けました。1516節はそのようなフィリピの人々への感謝が溢れています。今日の聖書の箇所を読んで、「情けは他人のためならず」という諺を思い浮かべました。

しかし、美しい韻を踏んだ讃美歌の歌詞も、現代の若者たちには分かり難いからと、平易な言葉に変えています。そのような若者たちには、この諺も言い回しが難しく、意味を取り間違っている人がいるそうです。「情けを掛けることは、その人のためにならない」と。だから、他人に情けをかけるな。これでは意味を全く逆に理解していることになります。「人に情けを掛けることは、巡りめぐって、いつか戻ってくる。だから、情けを掛けるよう心掛けなさい。」が本意であることは、昔の人なら誰でも知っていたことではないでしょうか。

 しかし、情けを掛けても、少しも良いことが返って来なければどうでしょう。それどころか、苦しみが返って来たら。でもこれが、この世の現実です。

 今朝、ジュニアチャーチで使徒言行録5章から話しました。ペトロたちは病や汚れた霊に悩まされている人々を癒されました。つまり、情けを掛けたのであります。その結果は、捕らえられ、牢獄に繋がれ、鞭打たれるという迫害でありました。それでも「情けは人のためならず」なのでしょうか。

 人からの見返りを求める人はここで挫折してしまいます。しかし、「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」(17)とパウロは言っています。人から恵みとして返って来なくても、神の恵みとして返って来るのです。確かに、益となる豊かな実を結ぶのです。これを霊の実と言います。クリスチャンにとって最も願っている、イエス様に似た愛の心が育っているのです。だから、他者のために祈り、愛を実践したいと思うのです。パウロは、この恵みがフィリピの人々のうちに育っているのを見て喜んでいるのです。

 1週間後に、岡村アシュラムがあります。それに先だって、本日から準備祈祷が始まります。祈祷表に従って聖書を読み、祈ってください。1時間ですからお祈りがお居眠りにならないようにしましょう。イエス様の弟子たちも祈りの時に、居眠りしてしまいました。その時イエス様は「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。また、イエス様の例え話では「ともし火を灯して、主人の帰りを待つ僕は幸いである」(ルカ1235)と、目を覚まして祈っていることを望まれています。これらは心の目を覚まして、祈り続けることの大事さを示しています。

 アシュラム準備祈祷表を見ても分かるように、クリスチャンの祈りの多くは、他者のための祈りです。助言者、証し者のため、奉仕者のため、参加者が多く起こり、彼らが主に取り扱われ、祝されるように。教会ビジョン皆の心の一致、家族、友人、近隣の人々の救いと長欠者の信仰回復、求道者のフォローと洗礼希望者が起こされるようにと、他者のために、守りと祝福を祈るのです。そして、自分のためには、主の弟子として何が足りないかを示されるよう、祈り求めることが勧められています。

 アシュラムのスタートは、「自分はイエス・キリストを信じているが、単なる信者に止まり、真の弟子になっていない、という反省が出発点である」と、クリスチャン・アシュラムの創始者・スタンレー・ジョーンズ師は言っています。今日の聖書箇所にも「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(19)と記されています。自分の欠けを知り、必要(ニード)を持ってアシュラムに参加しましょう。私たちの神は、その必要を満たしてくださる神様です。

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