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礼拝説教要約(2014年6月15日)

「神の子とする霊」      聖書・ローマ書8:12〜17

 神の霊を受けることが、どんなにかけがえのない、破格の恵みであるかを考えてみましょう。

 「わたしたちには一つの義務があります。」(:12)とあります。私たちの周りには多くの義務があります。憲法、法律、規約、試合のルール、交通規則等、守るべき義務があります。でも私は全てを守っているわけではありません。私が一番犯しており、今気にしているのは、交通規則の違反であります。特に駐車違反に、一時停止違反です。現在最後の一時停止違反が、松原湖キャンプ帰りです。此のところ毎年1回くらいずつ犯していて、今年の8月上旬内に犯せば累積で、免許停止になりかねません。でもこれは講習と罰金で解決できる問題です。

 しかし、ここには「一つの義務」とあります。決してないがしろにしてはならない唯一つの義務って何でしょう。

 私は「与えられた人としての生命を全うすること」だと思っています。決して他人の生命を奪ってはならないし、自らの生命を奪うことも、これに対する義務違反だと思います。それを聖書では「神に対する罪」と言います。

 しかしここには「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」(:12)と書いてあります。「肉」とは、肉体であるよりは「肉欲」であります。だから肉に従って生きるとは、ガラテヤ書5:19〜21にある「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐい」とあるような生き方です。ですから、単に肉体を生かす義務ではないと言うのです。肉体の死は誰にでも必ず訪れます。肉体を生かそうと思うから恐れが来ます。しかし恐れなければならないのは、肉体の死よりも霊魂の死です。聖書は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とあります。ほんとうに恐れなければならないのは、この死後の裁きです。これは神から裁かれ、人間として与えられている神の霊が、神の前に死ぬと言うことです。

 イエス様や世々の殉教者たちは、自ら進んで死地へ赴きました。神に生きるために、肉に従って生きることをやめたのです。これは消極的な生き方ではなく、霊に従って生きる積極的な生き方です。先のガラテヤ書は「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」と、神の子として生きることだと言っています。

 今、愛する85歳になるひとりの姉妹が、癌宣告を受けました。医者も年齢を考えて、手術や抗がん剤投与を用いた治療はしないほうが良いとの診断でした。しかし、姉妹には死への恐れがありました。それで「人は歳を経ると誰でも体力的に衰え、病気にかかり、肉体的には死にますよ。でも私たちには、どんなに歳をとっても希望が有ります。神の子としての霊を与えられ、永遠の命、天国が約束されています。私たちの希望は自分の能力(才能や体力)、努力にあるのではなく、神にあります。神の愛、キリストの十字架の贖いの恵みに希望は有ります。命の権は神様が持っておられるのだから、私たちを愛して神の子としてくださった神様に委ねましょう。」と祈りました。

 神が私たちを愛して、霊を注いでくださった。この恵みを黙想してみましょう。1、神の子としてくださった。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(:14) イエス様のように実子ではないが、洗礼の契約により、養子として、確かに神の子とされているのです。全能の力を持っておられる方が、新しい父なのです。2、その結果、新しい父の財産の相続者とされているのです。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」(:17) 3、今や、古い負債のある生活、罪の恐れからも開放されているのです。4、キリストを長男とした神の家族の一員です。私たちは神の子とする霊を受けたのです。地上にあっては、天国の雛形の恵みを味わい、その時が来たら、イエス様と共に「アッバ、父よ」と呼ぶ交わりが待っています。これこそ私たちの希望です。

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