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                                                      礼拝説教要約(2014年6月1日)

「御言葉を受け入れる」  聖書・ヨハネ福音書17:1〜13

 本日は聖餐式を伴う礼拝です。人としてこの世に来られたイエス様が、弟子たちと過ごした最後の夜に聖餐を行いました。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」(ルカ2219〜20) でも、弟子たちにはこの意味が良く分かっていませんでした。悟りの悪い弟子たちにイエス様は「馬鹿だね−。こんなことも分からないのか。わたしと何年、一緒にいたの!」と嫌味など言いませんでした。

 パンが裂かれたように、イエス様が十字架の上に架けられ、血を流して死ぬことなど、弟子たちには思い及びもしませんでした。ましてそれによって、

わたし達の罪が赦されること、そしてこれが神の前に義とされる救いの恵みであり、流された血が神様との間に交わされた救いの契約の血判であることなど、理解するはずは無かったのです。

 それ故、主イエスは祈られました。祈りは人知を超えて神の真理を私たちに悟らせます。イエス様は救い主・キリスト。それは真の大祭司となるということです。地上においては、ご自分が犠牲の子羊となって罪を贖い、天に帰っては、父なる神の右に座して、常に執り成しの祈りを捧げる大祭司です。地上の神殿では、動物が犠牲として捧げられました。そして大祭司が大贖罪日に至聖所に入って祈ることで、罪が赦されました。これらはイエス様が天の聖所に入って祈ることで完成される救いの雛形だったのです。今や雛形ではなく本物の大祭司としてご自分が現れ、救いはまもなく完成することを確信して祈られたのです。

 でも、今から弟子たちが目にするイエス様は、決して格好良い救世主の姿ではありません。イザヤ書53章に預言されている「見るべき姿はなく、輝かしい風格もない、軽蔑され、人に見捨てられ、苦しみ、屠り場に引かれる子羊のような」敗北のイエス様であります。だから、イエス様は「子(わたし)に栄光を与えて下さい。」(:1:5)と矢継ぎ早に祈っておられるのです。ご自身が、すべての人に永遠の命を与える救い主として、人間がわかるようにと。人間が、敗北のイエス様を、預言されていた救い主と受け止められるのは、イエス様の復活と昇天を見る以外にはありません。だから「栄光」とは復活と昇天をさしています。そしてそれは「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」(:5)とありますから、イエス様が神の子であるとの証明でもあります。しかし、弟子たちがイエス様を神の子メシアと、ほんとうに理解できたのは聖霊降臨後であります。この神の奥義は人間の知恵では理解できません。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Tコリント12:3)とある通りです。

 イエス様はこのために「聖霊について語ると共に、わたしのみ名によって祈れ」とたびたび語ったことを、ヨハネは141516章に書き残しています。「御名によって祈る」のは、そのお方の御力を信じるからであります。私たちにイエス様が大祭司になられたことを信じさせるのは、御言葉は真実であると、そのまま受け取ることであります。「受け取る」とは、信仰の世界では守ること、御言葉に従って生きるということでもあります。

 御言葉によって私たちは、イエス様が神のもとから来られた独り子であると知るのであります。そしてこのお方が御名「イエス(罪を取り除く)は主」の通り、私たちの身代わりに、犠牲となって罪を取り去って下さった救い主と信じられるのであります。

 次週は聖霊降臨です。聖霊は「イエス様が語られた御言葉は全て真実です」と受け入れさせてくれるでしょう。そのためにも、「聖霊来たりませ」と、熱心に祈る1週間にしましょう。

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