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礼拝説教要約(2014年5月25日)

「父のもとに行く」    聖書・ヨハネ福音書16:5〜18

 「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」(5)とある「わたし」とはイエス様のことです。「お遣わしになった方」とはもちろん、父なる神様であります。本来、イエス様は父なる神のもとから来られたのですから、「帰る」と言ったほうがふさわしいでしょう。「父のもとに帰る」と言うと、今日の聖書の箇所と、聖書の中にあるもう1箇所の出来事を思い出す人が多いでしょう。

 放蕩息子のたとえ話として良く知られているルカ福音書15章であります。ここは神の愛を示す代表的な箇所として知られています。

   わがまま故に父のもとを飛び出した息子は放蕩三昧、この世の汚れの中に身を持ち崩しました。でも、本心に立ち返り「父のもとに帰ろう」と決心しました。これも自分本位の甘い考えであります。しかし、父は息子がいつ帰ってくるかと、いつも心待ちにしていて下さったのです。ここに、神などいないかのような生活をしている人間の罪の姿が描かれています。でも、そのような人間を神は愛し続けていると聖書は言うのです。

 この例え話は、待っている父なる神に焦点が当てられています。放蕩息子に表わされる人間の側は、神のもとに帰れる何の良い働きもありません。ただ本心に立ち返ることだけが求められています。

  今日の箇所は、父なる神のもとに帰る、神の子・イエス様に焦点が当てられています。

 イエス様は使命を持って、この世へと遣わされて来られました。この世にある間も、いつも、父なる神の御旨が何であるかを確認しつつ、その御旨の中を歩まれました。そのためにイエス様は常に祈られました。ヨハネ福音書141011「わたしが父の内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」とあります。これはイエス様の、父なる神との一体感の確信の言葉です。そして、十字架の上で、私たち人間の罪を贖うという業を成し終えました。そしてご自分の言葉の真実である保障として復活し、父なる神の元に帰ろうとしているのです。

 今週の木曜日、29日が主の昇天日です。
「主が去る」ということは、弟子たちにとっては寂しく悲しいことです。不安が一杯だってことでしょう。しかし、イエス様は「去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われます。イエス様が地上から去って行くことによって、私たちを導く真理の霊、別の弁護者が来ると言われます。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところへ来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
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 目に見えるイエス様であれば、私たちは肉的に頼ってしまいます。ですから、心に変化は起こらないのです。しかし御霊として地上に来られるなら、私たちの心に、救いの恵みを確信させられるのです。また、弁護者ですから、私たちに代わって、罪を執り成してくださるのです。私たち自身が、どんなに未熟で、口下手であっても、もう大丈夫です。主の執り成しは、今までの罪だけでなく、弱さ、欠けの故に、今から起こすであろう罪のためにも執り成して下さるのです。そしてその執り成しは完全なものです。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ725)

 ですから、主の昇天を喜びましょう。でも、イエス様でさえ地上に居る間は常に祈りました。また、弟子たちも、主が天に帰られた後、一緒に集まって、熱心な祈りをささげ続けました。私たちも、この例に倣って、常に、熱心に祈る者でありたいです。特に、今週の主の昇天日から、聖霊降臨の日までは、聖霊の注ぎと導きを祈ってまいりましょう。

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