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  礼拝説教要約(2014年4月13日)

「へりくだって、互いに」 聖書・フィリピ2:1〜10

 私は疲れた時、ボケッとしてテレビを見ます。水戸黄門など頭を使わない時代劇が良い。最後は必ず黄門さんが勝つ。その決定的なところで「この印籠が目に入らぬか」と三つ葉葵の印籠をかざす。

 キリスト教において決定的なところで出す印籠、その御紋が、今日の2章6〜11のように思います。その国家権力を示す将軍家の威光を黄門さんはかざす。しかし、キリスト教の威光は、相手を跪かせる権力ではない。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(2:8)な、愛ゆえに「へりくだった」姿であります。

この世的には「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。…苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」(イザヤ53:2〜37〜8)と預言されている苦難の印籠であります。しかしこの苦難こそが「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…彼が自らをなげうち、死んで、罪びとのひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ53:512)と、私たちを救うという、イエス様にしか出来ない、唯一の救いの道だったのです。この神によって隠されていた、救いの真理を知った者にとっては、この「へりくだりの印籠」こそが「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(2:10〜11)とあるように、まことの威光として輝くのであります。
 そしてこの「へりくだり」こそが、現代にとっても、幸いな交わりを生み出す秘訣であります。

フィリピの教会は、パウロがヨーロッパに築いた最初の教会であります。婦人が中心となった教会であります。愛と喜びの溢れる理想に近い教会であります。しかし、今この教会の有力な二人の婦人が対立し、分裂の危機がありました。これはどんな教会であっても陥る危険があるのです。熱心になればなるほど、又、自分たちの信仰こそ正しいと信じれば信じるほど、対立、分裂も起こり得るのです。愛を説く教会なのに、歴史的にも、分裂は常にありました。

そしてその原因をパウロは、利己心、虚栄心だと言っています。己を利する心。他者より自分を有利な立場におこうとする思い。仕事に対する使命より自分の出世や名声に心を奪われることにより、他者を蹴落としたり、他者への配慮を欠き、痛みを与えてしまうのであります。また、実質を伴わない外見上の栄誉は内実を伴わない故に、なおのこと、見破られないようにと、躍起となって自己主張をしてしまう。ここに不一致は起きてしまいます。

この不一致を阻止できるのは「へりくだり」であります。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいと、パウロは言います。「相手を自分よりも優れた者と考え」るとは、他者の長所を見出し、重んじることであります。完全な人は居ません。誰でも欠点もあれば、長所もあります。その人の長所を見出し、心を寄せるとき、真の友を得ることとなります。

またパウロは「わたしの喜びを満たしてください。」(:2)と言います。喜ばせたい愛する人を持っていることは、その人を成長させます。フィリピの人々は、自分のキリストにある成長を喜んでくれる人が居ることを、どんなに心強く感じたことでしょう。それだけでなく、この世と、彼の世にわたって私たちの成長を待ち望んでいる主がいることを覚えましょう。この「へりくだる」ということにチャレンジしてみようではありませんか。

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