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   礼拝説教要約(2014年4月6日)

「何をしてほしいのか」   聖書・マルコ福音書103545

「何をしてほしいのか」とイエス様に尋ねられて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟の願ったことは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」ということでした。このようなイエス様への訴えを聞いて、他の10人が腹を立てたのは(41節)彼らも同じ思いを持っていたからでしょう。残念ながら、人の欲望はどの時代も、どの国でも変わりありません。豊かになった現代に生きる私たちは、もう充分だと思っているかというと、そうではありません。更に豊かであるように、更に便利であるようにと、飽くことなく求め続けています。物質ばかりでなく、名誉、栄耀栄華を求めています。

 弟子たちの生活は決して豊かなものではありませんでした。「人の子(イエス様)には、枕する所もない」(マタイ8:20)と、その貧しさを表現しています。しかし、パンの奇跡をも体験した彼らは、イエス様が栄光をお受けになる時、つまり、来るべき天国では、物質的には何一つ欠けることなく、すべてが満たされていることを知っていました。だから、求めるものは、権力の座、名誉だと思ったのでしょう。

 今日のこの聖書箇所は、本来なら弟子たちとしては書いて欲しくない、弟子たちの恥が記されていると言えます。だからこの記事は、当時、教会の中心人物となっていたヤコブやヨハネの名誉を傷つけたり、まして、使徒として教会で重んじられている人々をおとしめるために書かれたものでもありません。かえって、自分たちの失敗体験を通して、人間の弱さを教え、誘惑はいつでも来ることを警告したかったのでありましょう。

 この弟子たちは3年前、すべてを献げ、イエス様の弟子となりました。しかし、過去における献身は必ずしも、現在の信仰状態の保障にはならないのであります。今、主に向き合い、正しく繋がっているかを、常に吟味しなければなりません。

 かつて、主の弟子となった方々のうち、多くの人が去って行きました。そのような人が別帳として、私たちの教会でも多数います。また、主の日の礼拝を守らなくても平気になっている長欠者も多いです。そうであってはならないのは当然です。日々のディボーションが疎かになっていないか、真摯に吟味する必要があります。

 イエス様と正しい関係で繋がっていない弟子たちを、イエス様は諭されます。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(:38)と。「わたしが飲む杯。わたしが受ける洗礼」とは、十字架上に釘付けられての死であります。また人間の罪の身代わりに、神から裁きを受け、見捨てられるという苦しみであります。これは私たちを救い、神の子とし、神の国の祝福にあずからせるためです。神の国は、イエス様と同じ愛の心の満ちている所です。

 そこでは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(:44)と言われているように、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者」(:43)となることであります。愛をもって互いに仕え合う人々の間に、神の国はあるとイエス様は言われました。イエス様は言われるだけでなく、十字架の死を前にした極限の中で「人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(:45)と見本を示されたのです。

 罪ゆえ、サタンに支配れていた私たちを、イエス様は命を代価に買い戻してくださいました。この愛を体感するとき、私たちは「どんな褒賞があるか」ということより、「いか主に倣い、仕えることが出来るか」ということが自分にとって重要であるかを理解できるようになるのです。そのとき、イエス様が十字架上で「すべてが終わった」(ヨハネ19:30口語訳)と言われた時、味わっていた、使命を果たし終えたとの充実感を、私たちも同じように味わい得る者とされるでしょう。

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