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                                                         礼拝説教要約(2014年3月30日)

「ただイエス様だけが」   聖書・マルコ福音書9:2〜13

今日の聖書箇所の前後(8章31節〜、9章31節〜)に、イエス様が受難を予告した記事があります。イエス様は自分が十字架にかかって死ぬことをご存知でした。また、復活しても、今までのように、自分が弟子たちの先頭に立って働くこともできないことが分かっていました。弟子たちに「あなた方が直接、この世に遣わされた働き人になるのだ」と自覚を促すために、今日の出来ことが起きました。

 イエス様の弟子となるということは、先ず、イエス様による救いの恵みを受けることです。通常、弟子になることは義務を果たし、仕えることから始まります。なのに、イエス様との関係は、恵みを受けることから始まるとは,なんと感謝なことでしょう。あなたもぜひ、イエス様の十字架の死と復活の恵みを体感してください。この恵みを受けた者だけが、主と共に歩む働き人になれるのです。イエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:30)と言われました。この恵みを頂かないで、ただ頭で知っているだけだと、イエス様と共に歩くことは重荷となるのです。だから、働きの前に、本日の聖書箇所の体験が必要なのです。

 今日の聖書箇所は、ガリラヤ地方にある、現在は通称「変貌の山」と呼ばれる山での出来事です。何か素晴らしい事が起こりました。「イエス様の姿が変わり、白く輝いた」このようなイエス様に出会う体験を、羨ましく思いますか? 確かに、このような現象に出会うのは素晴らしいことでしょう。その上、モーセとエリヤまで現れました。モーセは律法の代表者、エリヤは預言者の代表者であります。それゆえこの現象は、旧約聖書全部がイエス様を誤りない救い主であると支持していることなのです。

 また、モーセとエリヤは死ぬことなく天に帰った人物とされています。これは、永遠の命を与えられ、天に居る信仰者の予表であります。だからここには天国の輝きがあるのです。弟子たちが、ここに寝泊りできる小屋を造り、留まり続けたいと思ったのも、もっともなことです。

 でもこの時、弟子たちは「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という神のみ声を聞きました。イエス様は神の独り子であられるのに、人間の姿をとってこの世に来られました。それは人々に神の国を伝え、私たち人間の重荷を負うためです。私たちに代わって罪を贖い、私たちをサタンの手から救い出すためです。イエス様が十字架に架かり、救いを成就した後、この福音を世に伝えるのは弟子たちの使命です。弱く力のない弟子たちがこの使命を果たすために「これに聞け」と言われたのです。

 この変貌山の出来事は復活の予表です。弟子たちはこれを体験しました。確かに素晴らしいことではあります。しかし、私たちはその成就を知っている者たちです。ですから、私たちはもっと恵まれた者たちと言えるでしょう。

 もはやここには、モーセもエリヤも見えません。しかし「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と、今も天の父は言っておられます。神の言葉・聖書に耳を傾けるこの礼拝こそ、変貌の山なのです。私たちはここでイエス様のお言葉を聴くのです。また、アシュラムで、そして日々のディボーション(静聴)が変貌山になるとき、私たちはそこでイエス様だけを見ることが出来ます。

 今日は役員の任職式、JCスタッフの任職式です。主によって任命された働き人には、それを成し遂げる力を主が与えてくださいます。しかし、そのためにはイエス様に聞き、ただイエス様だけが見える時を持つことが肝要です。「ただ頭で知っているだけだと、イエス様と共に歩くことは重荷となる」と先ほど言いました。これは、選ばれた奉仕者だけでなく、すべてのクリスチャンにとっても同じことです。なぜなら、主によって救われたすべての人が、この世に遣わされている証し人だからです。

 主イエス様だけが見えると言いうる時間を、大事にしましょう。それは私たちに与えられた特権であり、恵みであります。

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