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                                                       礼拝説教要約(2014年3月23日)

「神の力に支えられて」  聖書・Uテモテ1:8〜14

 「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」(Uテモテ1:8)とありますが、先ず、皆さんは主を証しすることを喜んでいますか。特別伝道集会や伝道礼拝で積極的に証しして欲しいと思います。でもここで言う証とはこのような特別な証のことだけではありません。日常の生活の中でキリスト者であることを証しするということです。チャンスが与えられて、「自分が、なぜ十字架に架けられ、復活されたイエス様を救い主として受け入れたか」等を証しすることです。その証しをする1番のチャンスとなるのは、毎週の礼拝を厳守することです。祈祷会等、事あるごとに教会に来ることです。そうすると、あなたの周りにいる人々は、「何で毎週礼拝に行くの? 何でそんなに教会に行くの?」と不思議に思い尋ねることでしょう。その時こそ、主を証するチャンスの時となるのです。また、教会へ友を誘うこと、トラクトを配布することです。昔から、「向こう三軒両隣」という言葉があります。これらの所にはいつでも、案内チラシ、トラクトを配布できるでしょう。教会では特別集会、クリスマスなどは教会周辺に個別配布していますが、配布することが恥ずかしいと思ったりしていませんか。私も昔、配布することを恥ずかしく思ったことがあります。だから、その家の人が庭に出ていると、通り過ぎて行き、その人が家に入ってから郵便受けに入れたこともあります。でも今では、その家の人が外に出ていると、これ幸いと「近くのキリスト教会の者です。良い集会、クリスマスの案内です。」と声をかけて渡すようにしています。パウロは「恥じてはなりません」と言っています。

 パウロはこの時、牢に囚われの身でした。牢に囚われるということは、本来、悪いことをしたからで、恥ずべきことです。しかしパウロは「イエス様は救い主です」という福音を伝えただけです。同じように、戦時中、日本でも、牧師であるというだけで獄屋に捕らわれの身となった人々がいます。私が伝道者になるための試験を受けた時の検定委員長・辻宣道先生のお父様もそうでした。少年だった先生は、お父様が捕らえられ、教会は解散させられ、生活は困窮しました。その時、守ってくれるであろう人々が、教会を離れて行く冷たさを味わいました。また、同じ信仰のはずの同労者たちが「復活や再臨を強調するからだ」と批判したりする言葉を聞きました。まことに残念なことでありました。このようなことが起こったのは、周囲の人々の目を気にし、恐れ、恥じるからであります。

 でもパウロは「むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」(:8後半)と言います。この世の力は私たちが思うよりはるかに強いのです。自分の力ではこれに抗し切れません。耐えられず負けてしますのです。だからこそ、神の力に支えられることが大事なのです。神の力に支えられるとは、神の力を受け続けるということです。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。枝が幹に繋がっておれば、常に養分が流れてきます。そして花を咲かせ、実を結ぶのです。だから、神の力に支えられるとは、イエス様に繋がり続けるということです。そうすれば「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41)とあるように、恥じるどころか、イエス様と同じ道を歩ける者とされていることを誇らしくさえ思えるのです。

 「福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」主が共にいるなら、忍べるのです。主の恵みを覚える者、体験した者なら忍べるのです。今日の新聞ニュースに「法王・フランシスコがマフィア犯罪の犠牲になった家族700人と面会し『私はあなた方と共にいます。つらい話を聞かせてくださって、ありがとう』と語り、カトリック教会とマフィアとの繋がりを切る決断を話したので、法王はマフィアに命を狙われるかもしれない」とありました。命を賭けて「私は共にいる」と言ったことは遺族にとって、どんなに慰め、励ましとなったことでしょう。人には苦しみを忍べる道があるのです。

 私たちの善行ではなく、「私たちを救い、聖なる招きに呼び出す」計画と恵みは神のものだから、必ず成就するのです。神はこの計画を永遠の昔に立て、ついに、イエス様の出現によって、私たち人間にあらわしてくださったのです。なんと感謝なことでしょう。

 そして、宣教者、使徒、教師はその迫害、辱めの矢面に立たねばなりませんが、恥じてはいません。事実彼らは、殉教の死を遂げました。しかし、希望があります。「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」(:12)との約束があるからです。「かの日」とは、主イエス・キリストの再臨の日です。イエス様に繋がっておりさえすれば、神の力が私たちを支えてくださいます。主と顔と顔を合わせ、お会いするそのときまで、確かにお守りくださるのです。

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