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                                                          礼拝説教要約(2014年2月9日)
「耳のある者は聞きなさい」  
聖書・マルコ福音書4:1325

 イエス様は自然を用いて、良く喩えを話されます。今日は種蒔きの喩え話です。皆さんは種を蒔き、実りを収穫するという経験がおありですか。私は農家出身ですから、米(籾)、麦、大豆、粟、そま、きゅうり、瓜、西瓜、トマト、ゴーヤ、大根、人参、牛蒡等、色々の種蒔きの経験があります。

 でもイエス様の弟子たちはガリラヤの漁師達や収税人でしたから、種まきの体験は無かったかもしれません。また、歴史的にも、イスラエル人は半遊牧民でしたから、農業に関する先天的な知識は無かったでしょう。だから、イエス様が種まきの喩えを話しても、「このたとえが分からないのか。」と言われてしまったように、充分理解できなかったのだと思います。

 でも、経験のある私も、納得いかないところがありました。種蒔きして、何故、種が道端、石地、茨の中などに落ちるのでしょう。しかし、ミレーの「種を蒔く人」という絵を見て得心いたしました。日本人は生真面目ですから、種を大事に、丁寧に蒔きます。でも、広い土地や、古い時代には、おおらかに、種を振り撒いていたのだなと、知りました。だから、思いがけない所にも種は飛び散るのであります。

 ここで語られている種とは、神の御言葉という種であります。神から召された預言者は「あなたがたは罪を悔い改め、神の御心に生きるように」とのメッセージを語りました。しかし、聞き従う者は少ない。預言者イザヤは「行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ6:9〜10)と、人々が、神の言葉を聞いても受け入れないだろうと預言したとおりです。

 イエス様も、神の国への招待に対しても人々が「畑を買ったので見に行く、…牛か買ったので調べに行く、…妻を迎えたので、行くことができません。」(ルカ14:15〜24)とこの世のことに心が向けられ、神の国の祝福など、二の次になっていると言っています。

 必ず朽ち果ててゆく、目に見えるこの世と、目には見えない永遠なる彼の世。現実の今と、希望をかける未来。目に見える行動と、行動に力を与える心。どちらが大事なのでしょう。目に見えるものは一時的であり、目に見えないものこそ永遠に続くのに。今が良ければ将来はどうでも良いかのように、国債を乱発して、次代の子らに借金を背負わせている、わが国です。心に使命感があり、気力が満ちているなら、大いなる力を発揮できることを誰でも知っているのに、なぜ、目に見えるこの世に執着し、永遠なる神の国の祝福を求めないのでしょう。

蒔かれた種が、多くの人の歩くこの世の常識という道に落ちたからです。また、種が頑固な心に根を張れず、困難にあうと直ぐに萎れてしまうからです。更に、この世の美しく見える惑わしに遭い、健全に育たないのです。神のみ言葉を聞くのは、心です。神の言葉を聞くとは、罪の許しを得させるための、悔い改めを迫る預言者の言葉を、心に受け入れることです。その時、@自分が罪人であることを認識できます。A悔い改め、方向転換をするのです。物質中心のこの世から、こころ中心の神の世へと。このように神の言葉を素直に受け入れる心が、良い耕された土地です。

この良い地に、神の言葉が根を張る時、自分の力でやろうとした時の、何十倍もの神の祝福を体験するでしょう。

 マルコはこの福音書をローマの人々に書いています。御存知の通り、ローマにおいて300年にわたって、キリスト教は迫害されました。神の祝福の言葉・福音が語られても、なかなか受け入れられないという現実がありました。だから、どんなに神の言葉の種を蒔いても、無駄との思いも湧いてきます。そして、福音を語らなくなる。これが、「ともし火を升の下や、燭台の下に置く」(:21)ということです。でも「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(:22)のです。神の心理の光は必ず輝き出します。ローマは300年かかりました。でも、種を蒔き続ける人がいたから、ついにはキリスト教の中心地となりました。日本は未だ、プロテスタント宣教150年です。「聞く耳のある者は聞きなさい」と福音の種を蒔き続けましょう。あなたも、聞いて受け入れ、一緒に福音の種をまく人になりませんか!

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