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元旦礼拝
                         
                  礼拝説教要約(
201411日)

                          聖書・出エジプト記20:8〜11
「心に留めよ」

 新年明けまして おめでとうございます。
新しい年がスタートいたしました。昨年の終わりに、「初心にもどって」と言いました。伝道者としての初心、神の民としての初心。それは、神様に選ばれ、愛されているということを自覚することです。
 神と人間の関係について、イエス様は喩えをもって語られました。父と二人の息子の話です。弟息子は愛されていることを意識せず、自分の力で生きてゆこうと、財産を分けてもらい父のもとを離れました。父は、息子が身を持ち崩しても、本心に立ち返って帰ってくることを、愛をもって待ち続けておられます。(ルカ福音書15章)
  実際、歴史の中で、人間は神から離れ、自分の才覚で生きてゆこうとしました。しかしそれは滅びへの道でした。現代に生きる私たちは、人間が幸福になろうと知恵を働かせて造り出した物が、戦争と自然破壊の歴史であったことを実感しています。神はそれでも人間を愛することを止めず、待っておられます。いや喩え話以上に、待つだけでなく、人間が帰ってくるようにと、愛を持って働きかけています。
  このようなことを思い巡らしている中で、示された今年の標語聖句が「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記208節)です。これは神の民のスタートに当たって、神が示された聖句です。
  「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。』」(創世記12:1~2)とあります。人間の知恵が造り出した文明。そこに神は現代に繋がる滅びを見ていました。その滅びへ向かう人間中心の世界から離れよと、神は呼びかけるのです。何処へ行くのか分からないまま、信仰の父と呼ばれるアブラハムは旅立ちました。神の愛を信じ、神の言葉に生きることが信仰であります。私にとっても「神の愛を信じ、神の言葉に生きる」ことが、初心に戻るということです。クリスチャンはすでにこのスタートを切った人であります。しかし、人は交わりをするように形造られています。一人ではつまりません。神はアブラハムをして、滅びではなく、命を育む本来の姿の人間の交わり、民族を造ろうとしておられるのです。
   神の民としてのスタートは、イスラエル民族の出エジプトと言えましょう。神はアブラハムの子孫、イサク、ヤコブ(イスラエル)、そしてその子らが民族として成長するまで待っておられました。彼らは、エジプトに代表されるこの世からの脱出の時を正月としました。それは彼らにとって、天地の造り主を神として崇め、その御言葉を信じる神の民として歩もうとの決意、初心に返ることだったのでしょう。
  今日、元旦礼拝だけだったので、車での送迎をしました。破魔矢を持って天神さんから帰ってくる人々に出会いました。彼らもまた、新しいスタートに当たって、祝福を願ったのでしょう。そのため破魔矢を買い求めたのでありましょう。魔を払いのけるために。しかしこの破魔矢は語呂あわせでしかありません。武家の社会で正月に弓の技を試す「射礼」というものがありました。それは浜で行ったもののようです。それは武家社会が起こる初めのころ、源平合戦で弓の名手・那須与一が海に浮かぶ船に付けられた扇の的を見事射抜いて勝利を得た。それにあやかりたいと、正月に浜辺で弓を射たのではないでしょうか。その弓を浜弓、矢を浜矢と呼びました。そしてその後、正月に、男の子のいる家に弓矢を玩具として贈る習慣が生まれたのです。それは一年の幸運を射止めるという縁起物であったわけです。その矢が神社で正月に買い求める、語呂合わせの破魔矢になったわけです。偶像礼拝の祝福の考え方がここに現れています。家内安全、商売繁盛といった願いは、悪き霊を払い除けることだという考え方です。
  しかし、私たちは天地を創造された主・全能なる神を信じる者たちです。神の民がこの世なるエジプトから脱出した時を正月としたように、新しい年のスタートに初心に帰ることはふさわしいことです。そしてそれは、主のみ言葉に信頼し、それを守ることです。復活の主にお会いするために弟子達が主の日として集まり、み言葉を聞き、パン裂きをしたように、わたし達も聖餐を重んじ、主の日の礼拝を厳守してまいりましょう。

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