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                                                         礼拝説教要約(2014年5月4日)

「まことの羊飼い」     聖書・ヨハネ書101118

 先週、教会総会で「教会員の魂のケアとしての牧会に力を注いでゆかねばと、示されています。」と言いました。その実際の行為は、会員への声がけ、配慮と休みがちな人への訪問を心がけるということであります。これは、私の願いであると共に、教会の心でありたいと願っています。

 イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(:11)と言われました。良い羊飼いとは命を懸けて羊を守るのであります。

 私たちは、ラング宣教師という良い羊飼いに導かれた群れであります。戦後、ドイツから共に来た同僚は、同盟教団に合流して、日本基督教団から出て行きました。しかし、横浜菊名教会の主任牧師である野村牧師は、日本基督教団に残ることを決意しました。ここでラング師が同盟教団に帰ることは、教会が2つに割れる恐れがある。教会の割れる混乱を避けるために、ラング師も日本基督教団に止まることにしました。しかしこのことは、背後のサポートしてくれる宣教団体からの援助金が断たれることでした。援助金が断たれることは死活問題でした。それでも群れを守るために残ることを決断したのです。このような信仰の中に私たちはいるのです。

 イエス様は自分が「良い羊飼いである」と威張るために言っているのではありません。確かにイエス様は語られたように、羊(私たち人間)のために命を懸け、十字架について執り成してくださいました。でも「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)と言われたように、弟子たちへの準備のためでした。弟子たちに、良い羊飼いになって欲しいと語っているのです。

 そして、良い羊飼いになる心構えを語ります。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(:14) 知っているとは、羊の状態をよく理解しているということであります。その性格、能力、癖、体調等を。愛するから知るのであり、知ったら、更に愛し、信頼し、状況に合わせて配慮できるのであります。でも知っているだけでは十分ではありません。知られることも重要であります。「知られている」とは、相手に受け入れられ、信頼されているという関係であります。どんなに良いことを言い、行っても、信頼され、受け入れられていないなら、良い結果をえることはできません。

 イエス様は弟子たちに能力があったから弟子にしたのではありません。弟子たちはどこにでもいるただの人でした。無学な漁師でした。嫌われ者の収税人でした。だからこそ、弱い人や嫌われる人の心を理解しやすいだけでなく、この人なら、私の悲しみや苦しみを分かってくれると相手が思えたのでしょう。それだけではありません。イエス様が弟子を召すときは、聖霊をも注いでから遣わすのです。「あなたがたを遣わす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:21〜22

 群れを養うと共に、「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」(:16) 群れを牧会すると共に、未だ、群れに加わっていない他の羊を導く伝道も、私たちに託された使命であります。

 先月は教会役員とJCスタッフの任職式をいたしました。今日は、先週の教会総会で選出された責任役員の任職式です。群れを養うのも、伝道するのも、牧師だけの役割ではありません。任職に当たって「牧師および同職の役員と共に、この群れを守らなければなりません。…彼らをよく導くのはあなたがたの任務であります。」と任職の辞にあります。そんな働きが私にできるだろうかと恐れる必要はありません。なぜなら、主は召した者に、必ず聖霊を注ぎ、必要な恵みと知恵を与えて下さるのです。

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