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礼拝説教要約(201312月8日)

                               聖書・Uテモテ31045
「み言葉に留まり続ける」

 降誕節も第2週目、クリスマスの近づいた感が深まっています。JCではページェントに取り組んで、次週はリハーサルです。何回も聞いたせりふですが、マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」が強く響きます。「お言葉どおり」ということは、自分の思い通りではありませんから、不自由や苦しみを負うことが多いです。でも、いやいや従うのは信仰ではありません。我慢しなさいと言うのではないのです。苦しい時は苦しいと言えばよい。悲しい時は泣けば良いのです。腹がたったら怒れば良い、でも、怒ったままで日を終えてはなりません。だから祈るのです。主の前に祈るなら、主の苦しまれたこと、先輩のクリスチャン達の苦しみと愛を思い出すでしょう。主のように生きたいと思っている私は、そこですべてが解決します。

 強く響いたのは、先週もふれた特定秘密保護法案が成立したからです。語るにも、聞くにも不自由を感じる時代にならなければ良いがと思います。

 今日の新聞に、自衛隊でいじめのため自殺者があったことを内部告発した人が、懲戒免職されたとの記事が載っていました。こんなことでさえ罰せられるなら、秘密を漏らしたということでどんな罰を受けるようになるのだろうかと、末恐ろしくなります。

 しかし、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(3:12)とあります。迫害や苦しむことはいやだというのであれば、キリスト教信仰を持ち続けることはできません。キリスト教信仰は、キリストと共に苦しみを担うことでもあるからです。主イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11:29)と言われました。そしてこの手紙の著者パウロは、どのような迫害もどんな被造物も「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:35~39)と言い切っています。

 トーマス・ア・ケンピスは「キリストに倣いて」の中に「復活を喜ぶ者はあるが、十字架を喜ばないものが多い。しかし復活は、十字架の向こうにあるのであって、復活だけ求めても、それは無理である」と書いています。

 来年の5月6日と少し先になりますが、こころの友関東大会の主題は「時が良くても悪くても」(4:2口語訳)となりました。戦時の治安維持法による迫害と不自由をもたらすような悪法にもなりかねない法律が成立した、このような時代だからこそ、福音を宣べ伝え続けてゆくことの大事さを思わされます。今回のこころの友伝道関東大会は、わたしが東京で奉仕した更生教会を会場として開催されますから、ぜひ一緒に参加しましょう。

 わたし達が福音を宣べ伝えることなくしては、神の国は生まれません。大河ドラマ「八重の桜」を引き合いに、何回も話題にしていますが、明治のクリスチャンたちの数は多くありません。しかし、社会に大きな影響を与えました。「私には、そんな大きな働きはできない」と思う必要はありません。なぜなら、素晴らしい社会を造ることがキリスト教信仰の目的ではないからです。結果としてそうなったということなのです。大事なことは、主の再臨の時に、主の前に喜びを持って立つことが出来るということです。そのために私たちは聖書を読み続け、主の愛を受け、それを証しし続けるのです。

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