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礼拝説教要約(201311月3日)

                            聖書・マルコ福音書7:1423
「人を汚すもの」

 人にとって最も大事なものは何ですか?

 人によって、色々あるでしょう。健康と言う人は多いのではないでしょうか。誇りを失うよりは死を選んだ時代は、武士社会でしょうか。どの時代にも名誉、お金こそが大事という人はいます。

 イスラエル人は律法を守ることを最も大事と考えました。神の前に、清い者として立つことが生活習慣でした。彼らは律法を守ろうとして、律法を細かく規定したのです。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」(マルコ7:3~4)と記されています。外から汚れが入り、身が汚れると考えていたことを示しています。だから、儀式的に身を清めることで、汚れは取り去れるとの考えです。この点は、日本人の考え方とも同じです。日本人は、日常生活の汚れは外側に積もる。それで、お祓いをして汚れを払い取ってもらうと、清くなると考えています。つまりこの汚れの感覚は不潔であって、外的力で払い落とせるとの考えであります。

 でも、イエス様は「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」(:15) と言われます。イエス様は「食物を摂ることで人が汚れることはない」と言われます。洗わない手で食事をすることは、健康上の問題はあるとしても、神の前における汚れの問題とは無関係だと言われるのです。そしてこのファリサイ派、律法学者の質問を用いて、神の前における汚れという霊的問題を説くのです。

 汚れは確かに外からの侵入者です。なぜなら、神が人間を創造されたとき、御自身の霊を吹き込んだのですから、本来の人間は、神と交わることの出来る清い存在でした。そして、喜び、生き甲斐、満足、平安を持っていました。しかし、人が、神無しで、自分の知恵で生きようとしたとき、汚れた者、罪人となったと聖書は言います。罪は侵入してきました。そして人間の内に居座ったのです。これが「原罪」と言われるもので、人間の修行努力、お祓い、儀式等では取り除けないものなのです。だらら、人間すべてが、神の前には死んでいるのと同然の罪人であり、今や、汚れを内に持つ存在となっているというのです。罪が人の心に侵入してきた時から、人はいつも心の内で争う者となりました。自分自身と争い、神と争い、他者と争うのです。そこには「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。」(:20~23)とあるとおりです。

 ペスタロッチーは「人間の本質をなすものは何か。人間が本当に必要なもの、人間を向上させ、強くし、品格を高めるものは、心の奥底における満足である」と言っています。これは、聖書が「人知では計りしることができない平安と、喜び」と言っているものです。真の心の奥底における満足、喜び、平安は、神との心の交わりによって、神が与えてくれるものなのです

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