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礼拝説教要約(2013年9月22日)

                       聖書・マタイ福音書20:1〜16
「共に働く喜び」

 先週月曜日から関東アシュラムがありました。台風が来る。それも予報では関東地方直撃とのこと。車で予定通りの出発だと会場近辺でちょうどぶつかることになる。それで少しでも危険を避けるため2時間早く出発しました。不思議と雨風を避けるような状態で、台風らしさを感じることなく、なにごともなく会場に到着しました。感謝!

 いち早く到着していた、初参加の神学校時代の同僚と会いました。又、今回の助言者は、私たちの結婚の仲人(証人)で、共にインドネシアにも伝道旅行した先輩でした。会うだけでも嬉しくなりました。主の畑で、同じ思いを持って共に働く友との再会ですから。

 同じ思いとは、ペトロがマタイ1927節で「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」と言っていることです。でも後半の「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」はよろしくない。なぜなら、「あなたの国籍は天にある。」だからです。イエス様に付き従ったのは何かをいただくためではなく、既に頂いたものの素晴らしさに感謝し、喜んで従ったのでした。そうです。罪赦され、神の子とされ、天国が約束されています。そして付き従ってきた旅路で、妻と子、生きるに必要な全てを与えられてきました。これ以上に何が必要でしょうか。

 でも、ペトロを責めるわけには行きません。私たちはイエス様の十字架=救い、と復活=約束の保証を知っています。既に成就していることだからです。しかし、イエス様と共に歩いているペトロ等は、イエス様の十字架の死など考えたこともありません。イエス様は勝利の主だと思っているのです。だからましてや、復活など思い及びもしないことでした。

 今日の聖書の箇所の直後に「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(20:22)「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(20:28)と記してあります。これはマタイにとって、「あの時は、このイエス様が言われたことが理解できていなかったのだよ。だから、ぶどう園の労働者の譬えも、あの時はわかっていなかった」との告白でもありましょう。

 春夏秋冬四季のある日本と違って、イスラエルは雨季と乾季しかありません。だから、ぶどうの収穫時期は短いのです。直ぐ直後に雨季が迫っています。「猫の手も借りたい」忙しさです。だから、1日1デナリオンの契約で雇った人だけでなく、働き手があるなら、1時間でも働いてもらいたいとの願いがあります。だから6時だけでなく、9時ごろ、12時ごろ、15時ごろ、17時ごろと何回も出かけて雇いました。18時になって仕事は終了。賃金を払うことになり、1時間しか働かなかった人から支払い始めました。1デナリオンです。本来このような支払いをしていたら、赤字です。1,2時間働いてもらってもらっても1デナリオンの収益はありません。だから、利潤を考えるなら雇わないで、ぶどうを摘み残したほうがましです。初めから働いた人たちが言っていることは、間違いではないのです。気前の良い御主人の支払いに、最初から働いた人々が「もっと貰えるぞ!」と期待したのも頷けます。

 この世は利潤追求の世界です。だから、利益が出ないなら人は雇わないし、葡萄が腐っても仕方がないと考えるのです。事実、収穫がありすぎると値下がりするからと踏み潰されてしまったキャベツや、海に捨てられた小麦の話を聞いたことがあります。利潤追求のこの世では、利益の上がる生産価値が無いと、人も物も必要とされないのです。でも、この話はこの世の考え方ではなく、「天の国は」(:1)とあるように、神が主人である天国の考え方です。天国の主人である神は利潤を度外視しています。天国の価値観は利潤追求ではありません。いかに人を生かし、物を生かすかにあります。神は全てのものを必要な存在として創造されました。そしてそれを人間に治めよと託されました。神の国は命を育む世界です。

 ラング記念聖書学校での学びの中で、牧師の招聘と辞任につい学びました。そして思い出したのです。わたしの学んだ神学校では、卒業時まで、何処に遣わされるか知らされませんでした。卒業の日、何処どこ教会へ行きなさいと言われ、それを受けるのです。主がその教会に遣わされるのだと、信仰をもって受け止めるのです。しかし近頃は、謝儀がいくらですか?と尋ね、それで行くか、行かないかの判断基準としている人がいるということを聞きました。これは悲しいことです。それはこの世の報酬のために働く価値判断です。でも教会の働きは、天国の価値判断でありたいものです。

 ぶどう園の主人は、働いた全ての人に、その日生きるに必要な1デナリオンを与えました。それと同じように、神のみ旨を生きるとき、神は生きるに必要なものを必ず添えて与えてくださいます。だから、いくらもらうかが大事なのではなく、神の畑で喜んで働くことが大事なのです。神と共に、神のみ旨を働くこと自身が喜びなのです。アシュラムで再会した神学校の同僚や、先輩は、同じ神の愛の心で働く同士だから、会うだけでも嬉しくなったのです。

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