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礼拝説教要約(2013年9月15日)

                                                        聖書・エフェソ書5:1〜5
「神に愛されている子ども」

 敬老の日を迎え、今年も昨年どおり、祝福の祈りを捧げることが出来ることを嬉しく思います。今日の新聞の天声人語に「生身魂、70と申し達者なり」という句が載っていました。確かに昔は70才といえば老人でした。でも達者だよ!覇気が伝わってきます。

 でも、私どもの教会では70歳では未だ敬老対象者じゃない。75歳からとしていますが、知り合いの多くの教会でもそのようです。教会の高齢者が、本当に若々しいので嬉しく思います。でもやはり、75歳、80歳、90歳にもなっている人を「子ども」と呼ぶのは気が引けます。しかし「あなたがたは神に愛されている子供ですから」(5:1)とパウロは言っています。神の国に入るのは、子供のように純真な心ですから、子供の心を忘れないようにしたいですね。でも私たちが「神の子」と呼ばれるためには、どんな大きな犠牲が払われたことか、これこそ忘れてはならないことです。

 かつては「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」(4:31)とあるように、私自身そのような者でした。「無慈悲」の原意は「忘れることのできない、にがにがしい思い」だそうです。こころの奥深くに巣食う苦々しい思いは、否定的に物事を受け止め、他者に対して優しくなれません。「憤り」は爆発的な怒りですが、燃え上がって収まります。それに対し「怒り」と訳されている言葉は、心の中にくすぶり続ける持続的な怒りです。そしてこれらは面と向かって「わめく」ことになります。でも「そしり」は影でこそこそ恨み、悪口を言う。どちらにしても、その人を腐らせ、主の喜ばれることではありません。そのような私たちを愛し、主イエス様はそれらを拭い払ってくださいました。そのためどんなに大きな犠牲を払ったかは、もう良く御存知のはずです。

そうです。そのため主キリストは「いけにえとしてわたし達のために、御自分を良き香りの供え物として、ささげてくださった」(:2)のです。だから私たちに「神に倣う者になりなさい」(:1)と勧めているのです。そうでないなら、イエス様を単なる清掃人にしていることになります。口先だけの感謝ではなく、そのお方を手本にするのです。人は真底尊敬する人に似るものです。「完全無欠の神に似た者になりなさい」とは大それたことのように思いますが、神の完全ではなく、神が造られた人としての完全です。ウエスレーはそれを「キリスト者の完全」と言いました。人は神の完全に達することはできないし、達する必要もありません。しかし、聖書は@人は神に似せて造られたから。A神の霊が内に宿ってくださっているから。B主イエス様と共に死に、共に復活し生まれ変わらせてくださったから。クリスチャンは神に似た、神の子供なのだと聖書は言います。何と感謝なことでしょう。

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