礼拝説教要約(2013年8月11日)
聖書・マタイ福音書12:46〜50
聖書・マタイ福音書12:46〜50
「わたしの兄弟姉妹」
先週は、スタンレー・ジョーンズ師の「神の然り」から、聖書の賜物について学びました。そのスタンレー師に、私はお会いしたことがありませんでした。でも、お会いした先輩方は「ブラザー・スタンレー」と呼んでいました。それは、アシュラムでは人間的指導者を持つ必要がない。なぜなら、「イエスは主である」と仰ぐ人たちの集いだからです。講演とか講義をする講師もいない。従わねばならない中心人物は置かないのです。だから御言葉からの導き手を助言者と呼びます。主イエスのみが導いてくださるお方。信仰運動の中心になれるほど清潔な人間はいない。だから、アシュラムは教職・信徒の別なく、兄弟姉妹としての交わりの中で、互いに愛し、仕え、励ましあうのです。
アシュラムは特別な日時の運動ではなく、クリスチャン生活そのものだから、教会では、会員同士を兄弟姉妹と呼びます。今日の週報でも…兄、…姉と記してあります。
わたしは教会員外の人が多く訪れる葬式の時などは、召天された方を、…兄、…姉と呼びます。それで先ず、何故、兄弟姉妹と呼ぶのかを説明することにしています。このような呼び方、いや、精神は、イエス様が弟子達のことを「兄弟姉妹」と呼んでくださったことに基づいています。
ではイエス様は肉親である兄弟や母マリアを疎んじたのでしょうか。確かに本日の12:47~48には「そこで、ある人がイエスに『御覧なさい。母上とご兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』」と言われました。
母マリアはカナの親戚の結婚式の時、イエス様と会話し、奇跡を見ました。「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召使たちに、『この人が何かを言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2:4~5)この時、イエス様は母マリアに対して「お母さん」と呼びかけず「婦人よ」と呼んでいます。マリアはこの時、イエス様が自分の子としてではなく、神の子としての公生涯に立たれたのだと悟りました。だから、自分が疎んじられたとは思わなかったのです。それは、イエス様誕生に際し、天使の御告げを聞き、不思議を見たので母マリアは「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)とあるように、イエス様が神の子としての使命に立つ時が来るのを知っていたからです。
しかし兄弟や親戚はそうではありませんでした。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコ3:21)や「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。(ヨハネ7:5)」とあります。イエス様の言動を、理解できず、母マリアのように、イエス様を、特別な使命を持ってこの世に来た神の子であると信じることができませんでした。身内の人々には、家族を捨て、自分を犠牲にして働くイエス様が、狂人になったとしか思えなかったのです。信仰にはそのような一面があります。
平和の聖人と言われたアッシジのフランチェスコも、彼に期待していた父に勘当されました。彼は着の身着のままどころか、服さえ脱ぎ捨てて家を出たと言われています。イエス・キリストに従おうと決心する人々が、家族から誤解され、敵視されることは、キリスト教の歴史を見れば多くあります。身近にもあります。決して珍しくありません。
しかし、そのように決断してイエス様の弟子になった者にイエス様は「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」(:49)と言ってくださるのです。
教会とは、そういうイエス様に従うことを決心した人々の集まりです。老若男女、人種、職業、この世の地位など関係ありません。神を「天の父」と呼び、イエス様を長男とする神の家族です。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(:50)
イエス様を救い主と信じ受け入れたものは、既に神の家族です。兄弟姉妹です。でも、更に神の家族としての実質を世に証ししてゆきたいです。この神の御心を行う人になれるよう、祈り、イエス様を通して示された神の愛を、更にまし加えていただきましょう。
先週は、スタンレー・ジョーンズ師の「神の然り」から、聖書の賜物について学びました。そのスタンレー師に、私はお会いしたことがありませんでした。でも、お会いした先輩方は「ブラザー・スタンレー」と呼んでいました。それは、アシュラムでは人間的指導者を持つ必要がない。なぜなら、「イエスは主である」と仰ぐ人たちの集いだからです。講演とか講義をする講師もいない。従わねばならない中心人物は置かないのです。だから御言葉からの導き手を助言者と呼びます。主イエスのみが導いてくださるお方。信仰運動の中心になれるほど清潔な人間はいない。だから、アシュラムは教職・信徒の別なく、兄弟姉妹としての交わりの中で、互いに愛し、仕え、励ましあうのです。
アシュラムは特別な日時の運動ではなく、クリスチャン生活そのものだから、教会では、会員同士を兄弟姉妹と呼びます。今日の週報でも…兄、…姉と記してあります。
わたしは教会員外の人が多く訪れる葬式の時などは、召天された方を、…兄、…姉と呼びます。それで先ず、何故、兄弟姉妹と呼ぶのかを説明することにしています。このような呼び方、いや、精神は、イエス様が弟子達のことを「兄弟姉妹」と呼んでくださったことに基づいています。
ではイエス様は肉親である兄弟や母マリアを疎んじたのでしょうか。確かに本日の12:47~48には「そこで、ある人がイエスに『御覧なさい。母上とご兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』」と言われました。
母マリアはカナの親戚の結婚式の時、イエス様と会話し、奇跡を見ました。「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召使たちに、『この人が何かを言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2:4~5)この時、イエス様は母マリアに対して「お母さん」と呼びかけず「婦人よ」と呼んでいます。マリアはこの時、イエス様が自分の子としてではなく、神の子としての公生涯に立たれたのだと悟りました。だから、自分が疎んじられたとは思わなかったのです。それは、イエス様誕生に際し、天使の御告げを聞き、不思議を見たので母マリアは「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)とあるように、イエス様が神の子としての使命に立つ時が来るのを知っていたからです。
しかし兄弟や親戚はそうではありませんでした。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコ3:21)や「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。(ヨハネ7:5)」とあります。イエス様の言動を、理解できず、母マリアのように、イエス様を、特別な使命を持ってこの世に来た神の子であると信じることができませんでした。身内の人々には、家族を捨て、自分を犠牲にして働くイエス様が、狂人になったとしか思えなかったのです。信仰にはそのような一面があります。
平和の聖人と言われたアッシジのフランチェスコも、彼に期待していた父に勘当されました。彼は着の身着のままどころか、服さえ脱ぎ捨てて家を出たと言われています。イエス・キリストに従おうと決心する人々が、家族から誤解され、敵視されることは、キリスト教の歴史を見れば多くあります。身近にもあります。決して珍しくありません。
しかし、そのように決断してイエス様の弟子になった者にイエス様は「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」(:49)と言ってくださるのです。
教会とは、そういうイエス様に従うことを決心した人々の集まりです。老若男女、人種、職業、この世の地位など関係ありません。神を「天の父」と呼び、イエス様を長男とする神の家族です。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(:50)
イエス様を救い主と信じ受け入れたものは、既に神の家族です。兄弟姉妹です。でも、更に神の家族としての実質を世に証ししてゆきたいです。この神の御心を行う人になれるよう、祈り、イエス様を通して示された神の愛を、更にまし加えていただきましょう。