礼拝説教要約(2013年8月4日)
聖書・Tコリント14:1〜19
聖書・Tコリント14:1〜19
「聖霊の賜物」
先週、横浜地区集会があり、「カルト」について学ぶ機会がありました。カルトの中には先ず、誤った教理に基づくものがあります。これを聞いた時「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(ヨハネ黙示23:18~19)を思い浮かべました。キリストに至らぬ旧約的なもの、キリストを通り過ぎ、更に完全なものがあるかのように言うものは異端です。ここには悪しき、偽りの霊の働きがあります。でも、教理的に誤っているとはいえないが、その宣教手段が誤っており、洗脳的で、人格と、世に害を及ぼすカルトがあることも知りました。
これらを考えていた時、アシュラム連盟全国理事会のセミナーでの学びを思い出しました。スタンレー・ジョーンズ師の「神の然り」です。スタンレー師は「もしこの事が今日の多くのキリスト信者たちに問題となっていなかったら、私はこの部分を書くつもりはなかった。」と、この問題が今日問題となっており、憂えて書かざるを得なかったことを記しています。
聖霊の賜物についてであり、@聖霊の賜物というものがあるのか?A聖霊に満たされたクリスチャンにとって、いろいろの異言を語る必要があるのか?であります。第一の答えは、実際にあると端的に答え、パウロが手紙で幾度も言及しています。問題は第二の問いであります。
スタンレー師は、「クリスチャンたちが異言を語るとは言っても、これは決して聖霊に満たされるために必要なしるしでも必要条件でもない。かえって、パウロがコリントの手紙に書いたのは、コリントにこの件で問題があったからである。」と言っています。
Tコリント12章〜14章の異言の議論は、コリントにこの問題で分裂が引き起こされていたので提起されている。使徒たちは「愛、喜び、平和」等については何度も述べているが、異言についてはここにただ1度である。従って異言の賜物は、初代教会では重要視されていなかった。
聖霊の賜物を単数形と複数形で現し、単数形は回心し受洗した信徒全てに与えられている。複数形で現される御霊の実は特定の人に、教会共同体建設の使命によって与えられるものである。
異言には2のタイプがあり、1つはペンテコステと関連し、バベルの塔の記事で乱された言葉の裏返しである。神はあらゆる国の言葉、あらゆる文化、あらゆる国民を用いようとしていることを現している。この、各国の言葉(外国語)で弟子達が語ったのは、福音を普遍化するための奇跡であった。
もう1つがこのコリント形で「通訳をするものがいなければ」語ることを禁じられているものである。スタンレー師は特別な状況下で特別な人しか語らないこの異言を「パウロはそれを御霊のより低い賜物の1つであるとして、それに対して警告している。」と言っている。
マルコの「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り(異言)、蛇をつかむであろう。また、毒を飲んでも決して害を受けない。病人に手を置けば、いやされる。」(16:17~18)は、もしこれらの五つの事柄が、聖霊降臨というペンテコステの永久的な役割あったら、キリスト教は1種の密儀宗教になった。これら五つの事柄は1つとして道徳性は無い。魔法的か半ば魔法的な力を意味する。キリスト教がこの5項目を旗印に世界宣教をしたら、魔法的密儀宗教となり死滅してしまったであろう。とスタンレー師は言っている。
ペンテコステの聖霊は、第一に、潔める霊であり、第二に宣教の力であります。パウロは異言の霊は、教会共同体建設のため、伝道のためではなく、自分自身の成長のためのものであります。だから密室での個人的祈りの助けとして用い、公の問題としないならば、アシュラム運動の中で交わりをもつために、異言を語る人も歓迎する。しかし、これが公の中で用いられる所では何処でも、分裂が避けられないと警告しているのです。真の御霊の実は分裂させないで一致させるものであります。(ガラテヤ5:22~)
主イエスは決して異言で話されたことはない。パウロは異言を語れるが、「異言で1万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります。」と言っている。どうであるにしろ、私たちが聖霊の賜物を求めるのは、主に似た者へと変えられ、福音を宣べ伝えるためです。
先週、横浜地区集会があり、「カルト」について学ぶ機会がありました。カルトの中には先ず、誤った教理に基づくものがあります。これを聞いた時「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(ヨハネ黙示23:18~19)を思い浮かべました。キリストに至らぬ旧約的なもの、キリストを通り過ぎ、更に完全なものがあるかのように言うものは異端です。ここには悪しき、偽りの霊の働きがあります。でも、教理的に誤っているとはいえないが、その宣教手段が誤っており、洗脳的で、人格と、世に害を及ぼすカルトがあることも知りました。
これらを考えていた時、アシュラム連盟全国理事会のセミナーでの学びを思い出しました。スタンレー・ジョーンズ師の「神の然り」です。スタンレー師は「もしこの事が今日の多くのキリスト信者たちに問題となっていなかったら、私はこの部分を書くつもりはなかった。」と、この問題が今日問題となっており、憂えて書かざるを得なかったことを記しています。
聖霊の賜物についてであり、@聖霊の賜物というものがあるのか?A聖霊に満たされたクリスチャンにとって、いろいろの異言を語る必要があるのか?であります。第一の答えは、実際にあると端的に答え、パウロが手紙で幾度も言及しています。問題は第二の問いであります。
スタンレー師は、「クリスチャンたちが異言を語るとは言っても、これは決して聖霊に満たされるために必要なしるしでも必要条件でもない。かえって、パウロがコリントの手紙に書いたのは、コリントにこの件で問題があったからである。」と言っています。
Tコリント12章〜14章の異言の議論は、コリントにこの問題で分裂が引き起こされていたので提起されている。使徒たちは「愛、喜び、平和」等については何度も述べているが、異言についてはここにただ1度である。従って異言の賜物は、初代教会では重要視されていなかった。
聖霊の賜物を単数形と複数形で現し、単数形は回心し受洗した信徒全てに与えられている。複数形で現される御霊の実は特定の人に、教会共同体建設の使命によって与えられるものである。
異言には2のタイプがあり、1つはペンテコステと関連し、バベルの塔の記事で乱された言葉の裏返しである。神はあらゆる国の言葉、あらゆる文化、あらゆる国民を用いようとしていることを現している。この、各国の言葉(外国語)で弟子達が語ったのは、福音を普遍化するための奇跡であった。
もう1つがこのコリント形で「通訳をするものがいなければ」語ることを禁じられているものである。スタンレー師は特別な状況下で特別な人しか語らないこの異言を「パウロはそれを御霊のより低い賜物の1つであるとして、それに対して警告している。」と言っている。
マルコの「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り(異言)、蛇をつかむであろう。また、毒を飲んでも決して害を受けない。病人に手を置けば、いやされる。」(16:17~18)は、もしこれらの五つの事柄が、聖霊降臨というペンテコステの永久的な役割あったら、キリスト教は1種の密儀宗教になった。これら五つの事柄は1つとして道徳性は無い。魔法的か半ば魔法的な力を意味する。キリスト教がこの5項目を旗印に世界宣教をしたら、魔法的密儀宗教となり死滅してしまったであろう。とスタンレー師は言っている。
ペンテコステの聖霊は、第一に、潔める霊であり、第二に宣教の力であります。パウロは異言の霊は、教会共同体建設のため、伝道のためではなく、自分自身の成長のためのものであります。だから密室での個人的祈りの助けとして用い、公の問題としないならば、アシュラム運動の中で交わりをもつために、異言を語る人も歓迎する。しかし、これが公の中で用いられる所では何処でも、分裂が避けられないと警告しているのです。真の御霊の実は分裂させないで一致させるものであります。(ガラテヤ5:22~)
主イエスは決して異言で話されたことはない。パウロは異言を語れるが、「異言で1万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります。」と言っている。どうであるにしろ、私たちが聖霊の賜物を求めるのは、主に似た者へと変えられ、福音を宣べ伝えるためです。