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礼拝説教要約(2013年7月21日)
聖書・マタイ福音書9:9〜13
「わたしが求めるもの」
 あなたが求めているものは何ですか?
 ここに、安定した職業、豊かな生活を捨てて、本当の生き甲斐、平安、喜びの人生を得た人物が記されています。彼の名はマタイです。
 マタイ(10章)、マルコ(3章)、ルカ(6章)福音書に12弟子の名が記されていて、「マタイ」の名も記されています。しかし、マタイが書いた福音書にだけは、自分を「徴税人マタイ」(10:3)と書いています。これは、自分がどんな所から救われたかを、決して忘れなかった証拠であります。マタイにとって、救いがどんなに大きな喜びであり、感謝であったか、生涯をイエス様に委ねた源がここにあることを示しています。
 マタイの職業は徴税人でした。当時の税には、穀物、果物等収穫物にかかる地税、収入の10分の1の所得税、市民税という基礎になる三つの税のほか、通行税、関税、市場・港等の入場税、車両税等ありました。これらの徴税人は嫌われ者でした。征服者ローマのために働く裏切り者とも考えられていました。ユダヤ人は、神こそが支配者であり王であると考えていました。それで納めるべきは神へ、その他は、神の主権を侵すとことであると考えていたのです。だからローマの手先となっている徴税人は会堂に入ることを許されませんでした。これは市民権がないということであり、証人になる資格もありませんでした。盗賊、殺人者と同格なのです。そのように嫌われ、罪人と呼ばれつつもこの仕事を続けるのは、安定と富の豊かさの故でした。
 マタイは収税所に座っていました。そこにイエス様が来られて声を掛けてくださったのです。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(:9) 
マタイは、生活は豊かでも幸福ではなかったのです。豊かになろうと努力し、徴税人の資格を買い、一生懸命働いたのです。生活的には何の心配もなくなりました。彼はこの世的には成功者でした。しかし、収税所に座っていても満足感はありませんでした。人との良い交わりはありませんでした。自分が選んだ道だと諦めていたでしょう。しかし、少し希望がでてきました。イエス様のうわさを聞いたのです。
マタイは収税所でイエス様に初めてお会いしたのではないのです。その話を群集に混じってこっそり聞きに行ったこともあったでしょう。律法学者やパリサイ人が嫌う罪人や、自分のような嫌われ者とも交わり、分け隔てなさらないイエス様に心動かれていました。できるなら、今からでも人生をやり直したいと思うようになっていました。その憧れのイエス様に声を掛けられたのです。マタイの決断は早かった。今流に言うなら「変わるのは、今でしょう!」マタイはイエス様の弟子になる覚悟を決め、生活の基盤である収税所を後にしてイエス様に従いました。
マタイにとってイエス様を家に招き、食事を共にするということは何と喜ばしいことだったでしょう。今最も人気者のラビ・イエス様が客になってくれたのです。罪人の家に入れば汚れるとされていました。まして、最も親しい交わりを意味する食事を共にするのです。マタイは嬉しくて嬉しくて、自分の仲間・徴税人や、人々からは罪人と蔑まれている人々を招いて、食事を共にしました。
早速、自分達は清く、神に受け入れられていると自負しているファリサイ派の人々が来て弟子たちに言いました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(:11)その質問の根底には、罪人と交わるイエス様は、罪人と共に汚れ、神のご奉仕など出来ないのではないか?との蔑みがありました。
 イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない』…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(:12~13)
 病人でなければ医者には行きません。でも汚れという神に対する罪を持っていない人がいるでしょうか?「私には罪など無い」と言うなら、それは傲慢です。罪に対して鈍感であると言えましょう。イエス様は罪を裁くために来たのではなく、ご自身をいけにえとして神に奉げ、罪人を執り成すために来られたのです。イエス様は罪を悔い改めて、人生を神の前にやり直したいと願う者のために来られ、今、招いておられるのです。
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