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礼拝説教要約(2013年6月23日)
聖書・マタイ福音書6:22〜24 
「ただ一心に」
 梅の季節。空は雨が降らなくても白く霞がかかっています。梅雨の空に青空はありません。
 白内障の手術をするまでは、この白くかすんだ梅雨のような目でした。手術したら、白は更に白く、今までの白は、黄色味がかった白だったのだと分かりました。そして、青の美しさに驚きました。
 これは、肉体の目のことですが、心の目がかすめば、どうだろうと考えさせられました。正しく見ているつもりでも、色眼鏡で見ていることがあるわけです。つまり偏見を持って見ていることが起こるわけです。
 今聖書では「重い皮膚病」と書いてありますが、「らい病」はかつて「天刑病」とも言われました。これは肉体的苦しみと、罪人であると卑しめる心の苦しみの二重苦を負わせることでありました。「部落差別」の士農工商、エタ、非人も、封建制度が産んだ悪しき身分制度であります。なのに、人間の血ではない、何か汚れた血が流れているかのような偏見をもち、精神的苦痛を与えました。心の目がかすんでいると、正確な識別、判断ができ難くなります。
 罪のゆえに、心の目はかすむのです。そして、自己中心という自分に都合のよい見方、考え方をします。ではこの心の目の矯正はどうすればよいのでしょう。国によっても、時代によっても、永遠に変わることのない聖書によって見ることです。聖書の真理によって心の目が矯正される必要があります。
 「澄んでいれば」(:22)という語は、ギリシャ語で「ハプルス」と言い、「寛大な」「惜しみなく」と訳せる言葉です。ヤコブ書では「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」(1:5)と用いられています。先週、マケドニアの人々が「惜しまず施す豊かさとなった」(Uコリント8:2)。また、人を許す寛大さをあらわします。許さずにいると、憎しみ、怒り等により、心が曇ることは誰でも経験したことがあるでしょう。「目が澄んでいれば」とは、二心の無い、一心さを現しています。だから、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(:24)とイエス様は言われたのです。
 「仕える」は「ドウルアイン」と言います。これは「ドウロス=奴隷」という言葉と語源が同じです。ですから、絶対的に服従して仕えるのですから、主人は一人しかいないのです。「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。」この「主人」は「キュリオス」です。これは「救い主」を意味します。だからここは、あなたは誰をキュリオスとして、全き服従をもって仕えますか?と問われているのです。
 あなたの心が、主としているのは、この世の冨ですか? それとも救い主キリストですか?
 心が分かれるなら、常に迷います。落ち着きがありません。不安になり、苛立ちます。ストレス一杯。現代の病の多くは、ストレスが原因です。そして精神が分裂します。いま、統合失調症が多いのもまさにこのような心が定まらない時代だからでしょう。
 ただ主により頼んだダビデは歌います「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして、あなたに讃美の歌をうたいます。」(詩編57:8)。口語訳聖書では「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつ、ほめたたえます。」一つも心のぶれない、確信がうたわれています。
 宗教改革をしたマルチン・ルターは「私はここに立つ」と心定めました。全世界の王達がひれ伏した中世のカトリックの法王と、居並ぶ枢機卿達の中で、一修道士が、命を懸けて「ここに立つ」と言ったのです。そう言い得たのは、聖書こそ真理であり、権威の源であると確信し、命を主に委ねたからでしょう。ただ一途に、一心に、主に信頼して歩みましょう。必ず、平安が心に満ち、主への讃美が湧いてくるでしょう。
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